「疑うことと信じること」 創世記17章15~21節
「子孫が豊かに与えられる」と、アブラハムが神の約束を受けてからすでに25年が経っています。 再び神が、「わたしは妻サラを祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。 わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。 諸国民の王となる者たちが彼女から出る。」と言われても、アブラハムは素直に神の言葉を聞くことができなかったのです。 ですから、妻サラの「主はわたしに子供を授けてくださいません。 どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。 わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」という提案に、アブラハムは妥協し乗っかってしまったのです。 神の約束を待ち切れず、耐えかねて、浅はかな知恵によって動いてしまう人の姿です。 「またですか。 いつまで同じことを言われるのですか。 何年経っているのですか。 待って、待って、もう待ちくたびれました。 事態は何一つ変わっていないではないですか。」と、アブラハムがつぶやいてもおかしくない時です。 アブラハムは、「百歳の男に子供が生まれるだろうか。 九十歳の妻サラに子供が産めるだろうか。」と、心の中でつぶやいています。 ひそかに笑っています。 ですから妻サラの説得に応じて、女召使ハガルによってイシュマエルという子どもを得たのです。 アブラハムもサラも心の中で満足はしていなかったけれども、これが神の約束である、祝福であると納得していたのです。 「もうイシュマエルで十分です。 主よどうか、イシュマエルが生き永らえるように」と願ったのです。 このアブラハムの祈りに、主は「いや違う。 あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。」とアブラハムを呼び戻したのです。
神の約束を信じ続けることの難しさが、このアブラハムの姿に映し出されています。 神が与えようとしておられる大きな恵みをアブラハムは信じることができず、自分で納得できる、信じることのできる目に見える小さな恵みに変えてしまう。 本当に、信仰は疑うことと裏腹であるように感じます。 疑うことがあるからこそ、信じることが起こされるのではないでしょうか。 神の存在など気づこうともしないところでは神を疑うことなどありません。 信じることもあり得ません。 アブラハムは神のみ言葉を信じて歩み出したからこそ、疑うようになったのです。 私たちは信じることと疑うことのはざまを行ったり来たりしています。 そんな私たちをすべて主がご存じで、「いや違う」と揺れ動く私たちをもう一度信じなさいと呼び戻してくださっているのではないでしょうか。 私たちが何かを見つけたから、何かが分かったから、何かをしたから信じることができるようになったのではないでしょう。 主が何度も声をかけてくださって呼び戻してくださったから、再び信じる者へと変えられたのではないでしょうか。 そこには神の時、神のやり方、神の意図があるのです。 ここで忘れてはならないことは、誤ったアブラハムの願い、「イシュマエルが生き永らえますように」という願いもまた聞き入れられたという事実です。 イシュマエルは、アブラハムとサラの不信仰の結果のような存在であると言えます。 神が祝福の約束をしているサラの子イサクの邪魔となる存在であるとも言えます。 しかし主は、過ちを犯したアブラハムとサラも、その過ちの結果とも言えるイシュマエルもその母ハガルも祝福するのです。 神の手のひらにすべて刻みつけると言うのです。 この世に生まれ出てくるものには、命が与えられている限りすべて神の意思に基づいている。 神の恵みの内にある。 何一つ捨て去るものはないのです。 私たちの目には祝福されていないように見えていても、何にも用いられていないまま放置されているかのように見えても、邪魔になっているかのように思えても、すべて神の手のひらに刻まれたものなのです。 アブラハムとサラの不始末が贖われて呼び戻されたように、祝福されるのです。 このアブラハムの神、イサクの神の系図の果てに、イエス・キリストの誕生があるのです。