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「座っていたマタイ」 マタイによる福音書9章9~13節 

2017-10-08

 イエスは、ガリラヤの各地を回って精力的に宣教活動をされておられました。 次第に、その評判が高まっていました。 群衆が、イエスのもとに押し寄せてきたと記されています。 主イエスは、食事も、休息も、寝る間もなかったのではないでしょうか。 そのような中、慌ただしく次の町へと向かわれている時です。 イエスは通りすがりのひとりの人物に、目を留めておられるのです。 「収税所に座っているマタイ」という人物です。 繁栄を得ていたカファルナウムの町には、今でいう「通関税」という税金を取り立てる場所があったのでしょう。 イエスを追い求めて近づいてきたわけでもないし、その「収税所」に座って仕事をしているだけの人であったマタイに、イエスはなぜ目を留められたのでしょうか。 
 マタイはいつもと同じように仕事を繰り返していたのでしょう。 大変な評判になっていたイエスが通りがかるというのに、見向きもせず、仕事についてじっとしたのです。 イエスがそのそばを通り抜けようとしているのに、動こうともしなかったのです。 見に行こうともせず、目をイエスの方に向けようともしないで、ただ座っていたのでした。 そのマタイに、イエスは「わたしに従いなさい」と呼びかけられたのです。 「わたしについてきなさい。 わたしとともに歩みなさい。 生活をかけて、わたしに従いなさい。」 このイエスの呼びかけに従うためには、マタイはその「収税所」の場から立ち上がらなければイエスに従うことはできないのです。 古い生活から新しい生活に入るためには、その場から立ち上がらなければ新しい事は起きないのです。 イエスに声をかけられたマタイは、「立ち上がってイエスに従った」とあります。 それだけではありませんでした。 マタイは、そのイエスを自分の家に招いて一緒に食事をしている。 その食事の席に自分だけではなく、多くの「徴税人や罪人」を招いてイエスと共にある食卓を開いているのです。 当時では、食事を共にするということは、仲間であることを示す振る舞いです。 交わりです。 生活と人生を、この仲間と共にすると宣言しているようなものでした。 「徴税人や罪人」とは、社会から差別され、嘲けられ、疎んじられている人たちのことです。 そうした人々の食卓を、マタイが準備して、設けて、そこにイエスが同席しているということです。 当時のユダヤ社会では許されない振る舞いです。 律法破りの大胆な犯罪です。 案の定、ファリサイ派の人々がこのことをイエスと弟子たちに詰問します。 「なぜ、あなたたちは徴税人や罪人と一緒に食事をするのか。」 その時のイエスの答えが、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」というみ言葉であったのです。 
 イエスは、丈夫な人になってもらうために、丈夫な人にするために招いているのではありません。 正しい人になってもらうために、正しい人にするために招いているのでもありません。 排除され、差別され、交わりから漏れている人たちを、その弱さや罪深さをすべてご存知のうえで、赦して、憐れんで、病人のまま、罪人のままで招いてくださっているのです。 あるのは、ただ神の憐れみです。 条件など何もつけられることのない、神の恵みだけです。 私たちはそれを感謝して、喜んで受け取るだけです。 イエスを見向きもせず、ただ座っていた徴税人マタイが、イエスの呼びかけに立ち上がって、そのイエスを招いて主の食卓を一緒に囲んだのです。 この恵みを、それぞれのわずかな生涯の旅路の中で、「行って、体験して、学んで」いるのではないでしょうか。 このイエスの呼びかけを私たちは聴き損なってはなりません。 イエスは、「貧しい人々は幸いである。 神の国はあなたがたのものである。 わたしにつまずかない人は幸いである。」と言われています。 私たちは、このイエスの先立つまなざし、憐れみ、無条件の恵みを知ることです。



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