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「一緒にいるすべての者」 使徒言行録27章21~26節

2017-10-15

 パウロはエルサレムでの騒乱により罪を問われ、ローマ皇帝に直訴するために地中海の船旅によりローマに運ばれることになっていました。 パウロは自身の弁明のためではなく、ローマに行って福音を宣べ伝えるという使命に燃えていたのです。 パウロが乗っていた船には、276人が乗っていたと言います。 エジプトのアレクサンドリアの船であったと言いますから、ナイル川のデルタ地域の穀倉地帯から穀物を大量に運搬する船であったのでしょう。 その大きな船が「風に逆らって進むことができなかった。 流されるにまかせた。 積荷を海に捨て、船具さえも投げ捨てた。 太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた。」と言います。 船具を捨てるほどの、太陽や星を頼りにしていた当時の航海では漂流せざるをえないような嵐の中で、パウロは叫んでいます。 「元気を出しなさい。 十四日間もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。 だから、どうぞ何かを食べてください。」と人々を励ましています。 パウロは、ローマ皇帝の直属の兵士たちに捕らえられて護送されているだけの囚人です。 船の片隅にいた、何の力もない、自由を奪われた哀れな人に過ぎません。 パウロの言う「わたしの見るところでは、この航海は積荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と損失をもたらすことになります。」という忠告にだれひとり耳を貸さなかったのです。 そのパウロが、「わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」と276人もの人々を励まし、ひとり恐れから解放されていたのはなぜでしょうか。 
パウロには「神の声」が聞えていたからです。 ローマに行って福音を語るというはっきりとした「祈り」が与えられていたからです。 自分の思いとはまったく逆の方向に進んでしまった船によって、災いと苦難の中に置かれてしまったと思わされる時にも、「恐れるな。 あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。 神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」という「神の声」を聴くことができた。 今、目の前で起きている試練や失望は、一時のことである。 終わりのあることである。 それが神のご計画であるなら、神のみ心であるなら、必ず神の働きがある。 このパウロの確信が、「船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。 それが、わたしが仕え、礼拝している神の言葉なのです。 わたしは神を信じています。 わたしに告げられたことは、その通りになります。必ずどこかの島に打ちあげられるはずです。」という言葉になったのです。 「祈り」と「使命」を与えられた人には、神の声が聞えてくるのです。 信仰をもって、希望をいただいて、神に依り頼む人には、神の声が臨むのです。 人の目には見えないその先が見えてくるのです。 希望を失ってしまっている人たちに、身の上や立場を越えて、神の声を大胆に語ることができるようになるのです。 力を失っている人たちに神の声を伝え、とりなしを求めることができるようになるのです。
 囚人パウロが、嵐の中で276人の人々の導き手となりました。 神を信じているから嵐や暴風を免れるわけではありません。 信仰者もまた、同じように嵐や暴風に出会います。 翻弄されます。 望みが断たれるようなことがあります。 しかし、信仰者は、神の時を待つことができます。 上陸に備えて、穀物の積荷を捨てることができます。 船を失っても動じません。 そのパウロに「一緒に航海しているすべての276人」が託されたのです。 この276人とはどのような人々であったでしょうか。 パウロの忠告に耳を貸さなかった乗客です。 途中で難破船から逃げ出そうとした船員たちです。 囚人が逃げ出すと自分たちの責任になることを恐れて、囚人たちを殺そうとした兵士たちです。 この混在した人たちすべてがパウロに託されたのです。 私たちにとって「276人」とはいったいだれでしょうか。 「嵐」とはいったい何でしょうか。 み言葉を与え、祈りを与え、導いてくださる、ともに歩んでくださるこのお方を「嵐の中」でも、「順風満帆な中」でも仰いで参りたい。 276人の救いが私たちに託されているのです。 



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