「神の喜び」 ルカによる福音書15章1~7節
イエスの話を聞こうとして近寄ってきた「徴税人や罪人」がいました。 「徴税人」とは、ローマから税金を徴収する下請けを委託されていたユダヤ人のことです。 決められている額以上のものを徴収すれば、それが自分のふところに入ったのでしょう。 ユダヤ人にとって、異邦の国ローマの下請けという職業だけでも忌み嫌われた存在です。 私腹を肥やすということがあるなら、尚更のことです。 ユダヤの社会から排除された存在を、聖書は「徴税人や罪人」と表現しています。 そこに、「なぜ、そのような人たちと一緒に食事をしているのか」と、イエスに不平を言うために近寄ってきた「ファリサイ派や律法学者たち」がいたと言います。 ユダヤの人々にとって、食事は神への礼拝でした。 神の民の群れの交わりでした。 汚れた者と一緒に食事をするということを、「ファリサイ派や律法学者たち」は認めることができなかったのです。 そのイエスに抗議を唱えて迫った彼らにイエスが語った譬えが、有名な「見失った羊」の譬えであったのです。 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでくださいと言うであろう。」と語られたのです。
「徴税人や罪人こそが、見失った一匹の羊ではないか。 これらの者が、今、私の話を聞きたいと戻ってきているではないか。 なぜ、あなたがたは一緒に喜ぼうとしないのか」と、「ファリサイ派や律法学者たち」に向けてイエスは語るのです。 「ファリサイ派や律法学者たち」とは、自分たちは何の落ち度もなく正しい行いをしている。 しっかりと自立して、神の前に立っている。 自分たちこそ、神に救われる資格をもっていると自負している人の姿です。 イエスは、神のもとに悔い改めて戻ってきている一人の罪人には、「言っておくが、このように悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にはある。」と言われたのです。 自分勝手な理由により、神のもとを離れてしまった人たちであるかもしれない。 しかし、今に至って、ただ神の憐れみだけにすがり、何の行いもなしに神のもとに取り戻されるという恵みに与かろうとしている。 そこに神の大きな喜びがある。 神はどこまでも捜し求めていく。 どのような犠牲を払ってでも見つけ出すまで捜し回る。 そして、見つけたら一緒に喜ぶ。 なぜあなたがたは一緒に喜ぶことができなのかと、「ファリサイ派や律法学者たち」に迫ったのです。
考えてみてください。 私たちはなぜ、神のもとに戻ることができたのでしょうか。 奇跡でしょうか。 偶然でしょうか。 自分の努力でしょうか。 人の助けがあったからでしょうか。 イエスは、神のもとに戻るための資格や努力を何も求めていません。 神がすでに、私たちを捜し求めてくださっていたからです。 失われた人を見つけ出し、連れ戻してくる。 そこに「神の喜び」がある。 神のもとを離れてしまっている人が一人でもいるなら、そこには「神の悲しみ」があるのです。 「悔い改め」とは、罪を犯した者が罪のない者となるための後悔でも、懺悔でもありません。 新しく立ち上がって、今までとは違う神の方向に向きを変える。 神のもとに立ち帰っていく。 見つけ出してくださった神の喜びを感謝して受け取って、その神の喜びの中に生きていくということではないでしょうか。 私たちは神に見出していただかなければ、神のもとに帰ることはできません。 私たちが、神に捜し求められていることに気づかなければなりません。 捜し、見出すことが神の喜びであることを知らなければなりません。 失われた者であった私たちが見つけ出されたように、失われた者に対する「神の悲しみ」が今もなおあることに、私たちは無関心であってはならないのです。