「夜明けの食事」 ヨハネによる福音書21章9~14節
生涯をかけて従ってきたイエスが十字架によって処刑され、目的を失ってしまった弟子たちでした。 最後には、そのイエスを裏切って、見捨てて、逃げ出してしまった弟子たちでした。 その後ろめたさと相俟って弟子たちは、虚しさの中に漂っていたのでしょう。 ペトロたちの故郷であったガリラヤ湖で漁をしていたというのです。 いなくなった、死んでしまったと思われたイエスが、この虚ろな弟子たちの前に何度か現れて、「あなたがたは、すべての民をわたしの弟子にしなさい。 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と励まされた弟子たちのはずでした。 漁師経験の豊富なペトロが「わたしは漁に行く」と呼びかけて、他の弟子たちが「わたしたちも一緒に行こう」と応じたその日の「夜の漁」でした。 「何も獲れなかった」夜でした。 経験を生かして様々な方策を試してみたが、その夜は一匹の魚も獲れなかったのです。 その様子を、よみがえられたイエスが岸辺に立って一部始終を一晩中ご覧になっていたというのです。 そのイエスが、「子たちよ、何か食べるものはあるか。」と尋ねた。 「何もありません」という弟子たちの叫びに、「舟の右側に網を打ちなさい」と言われた。 何度もお会いしているイエスを目を凝らして見れば、耳を凝らせて聞けば分かるはずの距離であるのに、弟子たちはそれが主イエスであるとは分からなかった。 言われた通りに網を打ってみると、網を引き上げることができないくらいの大漁となったと言います。
イエスは、ペトロたちを「人間をとる漁師になる」と言われて、弟子として召し集められました。 この「夜の漁」とは、いったい何でしょうか。 虚しさの中でただ日常生活に漂う弟子たちの姿を表しているのかもしれません。 先の見えない暗闇のなかにあった弟子たちが「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」とイエスに命じられて、恐れと戸惑いとためらいを携えながら、自分たちなりに懸命に取り組んでいた宣教の姿であったのかもしれません。 その弟子たちに、「舟の右側に網を打ちなさい」とイエスは呼びかけられたのです。 聖書の言う「右側」とは、神の側ということです。 人の思いの側ではなく、神のみ心の側です。 人や自分が喜ぶ側でなく、神が喜ばれる側です。 そこに目や耳や力を傾けなさいと、イエスは呼びかけられたのです。 先が見えない、惨めな結果にもがき苦しんでいる弟子たちであったのでしょう。絶望と失意のなかに歩み始めた弱々しい弟子たちであったのでしょう。 イエスは、その一部始終を一晩中、ずっと見ておられたのです。 ふさわしい言葉をかけて、呼びかけてくださったのです。 網を引き上げることができないくらいの「大漁のしるし」まで与えてくださったのです。 それだけではない。 イエスは炭火を起こして、その上に魚を乗せて、パンまでも用意し、たった今与えられた恵みの魚まで持って来させて、食事の用意をし、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と、虚しく夜の湖を漂っていた弟子たちを招いてくださったのです。 ですから、私たちの生涯は虚しいものではありません。 その恵みと憐れみを知る力がなかっただけです。 神のみ心を深く知る、神の力と知恵を求める祈りがなかったからです。 私たちにとって、どのような忌まわしいことが起きたとしても、どんな素晴らしい出来事があったとしても、それは神のみ心によって為された神の恵みです。 それが失敗に見えたとしても、成功に見えたとしても、 深くて長いご計画の中にある神の業です。 先の見えない「死」という終りに向かって漂っている生涯から、新しい命を与えられ新しい道を歩む生涯へと「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招いてくださっているのです。 イエスの復活は、十字架の終着点ではありません。 弟子たち、私たちが「夜明けの食事」に招かれ、養われ、遣わされていく、新しい命の生涯の始まりです。 イエスに替わって、闇に覆われている遣わされた所で福音を宣べ伝える新しい出発点です。