「終わりの日を迎えるとは」 マルコよる福音書13章1~13節
イエスがエルサレムの神殿の境内を出て行かれる時、重大な予告をされました。 「この神殿は一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と、神殿の崩壊を預言されたのでした。 事実、この約40年後にエルサレム神殿は壊滅しています。 イエスはここで、神殿の建物の行く末を語ったのでしょうか。 「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と目を奪われている弟子に、「これらの大きな建物を見ているのか」とイエスは言われたのです。 目に見えるものに目を奪われ、祈りの家とは程遠い強盗の巣になってしまっている神殿の有様をイエスは憐れみ、嘆いておられるのです。 このイエスの預言を聞いた弟子たちは動揺します。 天然の要害であり、何重にも城壁に囲まれたこの神殿が崩れることはないし、神が必ず守ってくださると信じていたからです。
オリーブ山に退いてその神殿の有様をご覧になって、十字架によってこれから始まる新しい世界の始まりを仰いでおられたイエスに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが密かにイエスに尋ねます。 故郷も家族も仕事も置いたまま、イエスに最初に従ってきた最古参の4人の弟子たちです。 「この世の終わりとでも言うべき神殿の崩壊は、いつ起こるのです。 そのときには、どのようなしるしがあるのですか。」 その弟子たちの質問に、イエスは「大規模な天災や人災がある。 人心を惑わす者が大勢でてくる。 社会的な苦難も、個人的な苦難もある。 しかし、それらは『終わりの日』のことではないし、その『しるし』でもない。 『産みの苦しみの始まり』である。」と言われたのです。 『産みの苦しみ』とは、新しい命の誕生という喜びの直前の苦しみではないでしょうか。 それこそ、終わりではなく始まりです。 『終わりの日』は神の国が完成される、神の国の始まりである。 新しく変えられる時である。 その時には、人によってつくられたものはことごとく覆されるのだと、神殿の建物の崩壊という表現を用いて語られたのではないでしょうか。 それが、すでにこの私の中に隠された形で来ている。 世の人たちはそれを見ることができないが、あなたがたは信仰によって見ることができると言われたのです。 思い起こしてみてください。 あのゴルゴダの丘に立った十字架は三本でした。 イエスはひとりの人間として、罪人として、強盗たちと同じ者となって横に並べられて十字架にかけられたのです。 「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」と祈り通して、この理不尽な苦難と死を身に受けてくださいました。 私たちのために、神の子となる道、神の国に入る命の道をつくってくださいました。 象徴的なことは、その十字架の前に立った二人の強盗が二手に分かれたということです。 ひとりは「お前はメシアではないか。 自分自身と我々を救ってみろ」と語った強盗です。 もうひとりは、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と語り、イエスに「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と語られた強盗です。 「終わりの日」とは、この十字架の主イエスに顔と顔をつき合わせて出会うということです。 それは恐れ、呪いでしょうか。 あるいは喜び、救いでしょうか。 終わりの日には、二手に分かれるのです。
ですからイエスは、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。 あなたがたはわたしの名のゆえに様々なところに連れて行かれ、私の十字架の証しをすることになる。 信仰ゆえの苦難がある。 しかし、すべては聖霊が導いて語らせる。 兄弟、親子、すべての人に疎まれることもあるだろう。 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」と最古参の弟子たちに語られたのです。 「耐え忍ぶ」という言葉には、「しっかり立つ」という意味合いがあります。 現実の苦しさ、厳しさの中にこそ、この喜びの福音が語られなければならない。 終わりの日に向かっているからこそ、神の救いのご計画があるからこそ、イエスの十字架の苦難と死を私たちは宣べ伝えるのです。