「わたしが与える平和」 ヨハネによる福音書14章25~31節
イエスは、「平和を実現する人々は幸いである。 その人たちは神の子と呼ばれる。」と言います。
平穏無事である、無病息災である、争いをしていないことが幸いであるとは言っておられません。 口語訳聖書では、「平和をつくり出す人たちは、幸いである。」と記されています。 イエスの言われる「平和」とはいったい何でしょうか。 その平和をつくり出すとはどういうことでしょうか。 「それは祝福だ、災いだ」と自分勝手に決めつけて、「この人にこのような出来事が起きてしまっているのは、どうしてですか。 このような災害や災難が起きているのは、なぜですか。」と尋ねる弟子たちに、イエスは「神の業がその人のうえに起こるためである」と言われました。 納得する理由を外に求め、あるいは神に求める。 それが与えられないなら、社会のせいにする、人のせいにする、神など存在しないと破れてしまう。 受け取りやすい、理解しやすいことだけを外に求め、神に要求してしまう。 これが私たちの現実の姿でしょう。 しかし、イエスは、神の業が起こり、神の恵みが現わされる時がやってきた。 そこに神の国が訪れる。 神に要求する前に、神がすでに働いてくださっておられるみ業にあなたは気づくようになる。 神の恵みがすでに与えられていることに気づかされるようになる。 その機会が今、与えられている。 だから、神のもとに立ち帰りなさいと、私たちをイエスは招かれたのです。 外に向かって破れてしまうほどのことが起こっているにもかかわらず、神に生かされている、愛されている、赦されていることに気づかされる。 この神の赦し、神の愛に生きる者とされていることに喜びをもって感謝をささげることができるようになる。 これがイエスの言う「平和、平安」なのではないでしょうか。
これからイエスと別れることになる弟子たち。 イエスの名のゆえに、自分たちの死をも覚悟しなければならない立場に置かれることになる弟子たち。 その直前のしばしのイエスとともにする最後の晩餐に与かった弟子たちです。 その場で、イエスは「わたしは、平和を残す。 わたしの平和を与える。 この世が与えるようなものではない。」と言われたのです。 考えてみてください。 弟子たちは、仕事も、家族も、故郷も捨てて、その存在すべてをかけてイエスに従ってきたのです。 そのイエスがいなくなる。 間違いなく神の子であるそのお方が殺され、踏みにじられ、嘲られなければならない理由が分からない。 絶望と孤立にただ佇んでいるだけの弟子たちの耳に、イエスのこの言葉が響いたのです。 これから弟子たちが向かって行くのは嵐が吹き荒れる世界です。 無病息災でも、平穏無事でもありません。 「わたしは去っていくが、あなたがたのところへ戻って来る。 わたしの平和を残す。 父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」と、この最後の晩餐の部屋から出て行く勇気のない弟子たちに、イエスが憐れみをもって語りかけられたのです。 イエスが与える平和は、聖霊による平和です。 賜物として与えられる平和です。 かつて何も分からなかった、見ることも聞くこともできなかった神のみ言葉や業が思い起こされる平和です。 ですから、私たちは与えられたもので、崩れ落ちるような見せかけのはかない平和に惑わされてはなりません。 錯覚もしてはなりません。 逆に勝手に思い描いているものを与えられていないと、失望もしてはなりません。 私たちは、神に愛されている、赦されていることに気づいて喜んでいるでしょうか。 この神の愛、赦しの体験が、力や喜びや感謝を産み出します。 イエスの平和、平安を味わった者が、イエスの平和を創り出します。 地上の弟子たちがイエスに招かれたように、聖霊の主が私たちをイエスの平和に招いてくださっているのです。 「さあ、立て。 ここから出かけよう」と奮い立たせてくださっているのです。