「私と私の家は主に仕える」 ヨシュア記24章14~15節
エジプトの奴隷の家に生まれて、モーセによるエジプトからの脱出の大事業を目の当たりにしたヨシュアでした。 主なる神の僕として立つモーセを心から慕い、忠実に従い、その後を託された人物です。 外に向かっては他の民族との戦い、内においてはイスラエルの民の不信仰との戦いという壮絶な生涯でした。 そのヨシュアが、自分の死期の近いことを悟り、イスラエルの民の指導者たちを呼び集めます。 110年の生涯を終える前に、最後の「証し」を家族に、そしてイスラエルの民に語るのです。 ヨシュアは、「わたしは年を重ね、老人となった。 今、この世のすべての者がたどるべき道を行こうとしている。」と静かに語り始めます。 ヨシュアの遺言です。 最後の奉仕です。 後を託すための言葉です。 ヨシュアが語ったことは、自分たちイスラエルの民に与えられた「神の恵み」です。 主なる神に与えられた恵みの「証し」を、最後の奉仕として感謝して次の世代に向けて宣べ伝えている、「死」を前にした信仰者の姿がここにあります。 「あなたたちの神、主があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことはなかった。 何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した」(23:14)と、ヨシュアは自分の家族に、自分の民に語っているのです。 生涯の最後に、このような「証し」を、次なる世代に語ることができる幸いは最高の恵みではないでしょうか。 そのヨシュアの姿と言葉が、どれだけ後に続く者を勇気づけたでしょうか。 他の民族と戦って勝ち取ったとか、土地が与えられたとか、子孫が増し加えられたとかいう単純な話ではない。 ヨシュアは、主ご自身が私たちに与えようとしているものに、命じられたように脅えず、疑わないで、向かって行ったことによって主が用意してくださったものを得ることができた。 主のみ言葉通りに事が成し遂げられた。 「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。 わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。 あなたを見放すことも、見捨てることもない。」という主の約束の確かさを、人生の最後にヨシュアは噛みしめているのです。 主ご自身が先頭に立って戦って、私たちに必要でないものを押しのけ、払いのけてくださったからです。
ヨシュアはその恵みに応えて、「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって主に仕えなさい。 諸々の神を除き去って、主に仕えなさい。 仕えたいと思う神を、今日、自分で選びなさい。」と言うのです。 主は準備をして先に住んでいるものを追い払い、占領しなさいと命じてくださった。 ヨシュアは、そのみ言葉を信じて従ったのです。 先に住んでいるものとは何でしょうか。 主がそこに神の国を建てると準備してくださっているところです。 主は人を用いて業を成し遂げられます。 そのみ言葉を信じて従う者がいなければ、神の国を打ち立てることができません。 偶像を礼拝しているところ、神のものとは異なるものによって支配されているところです。 私たちは断固としてこのみ言葉に聴き、主に仕えて従うことです。 「諸々の神を除き去りなさい。 今日、自分が仕えたいと思う神を選び取りなさい。」とヨシュアは託したのです。 そして最後に、「ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」と宣言したのです。 ヨシュアは自分自身の信仰、自分だけの恵みとしません。 たとえどのような時代になったとしても、周囲が何と言おうとも、「わたしとわたしの家は主に仕えます。」と公に言い表したのです。 幸いに、私たちには、「心騒がせるな。 神を信じなさい。 わたしをも信じなさい。」と語ってくださる主イエス・キリストがともにおられます。 「わたしの父の家には住む所がたくさんある。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。 わたしはそこへ行くための道であり、真理であり、命である。 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と言ってくださっているのです。