「最高の道」 コリントの信徒への手紙一12章31節~13章7節
このパウロが語る「愛の賛歌」を、道徳や倫理や感情の中で考えてはならない。 何か人の身についた資質のように捉えてはならないように思います。 これは、働きがバラバラになってしまった、本当に問題の多いコリントの教会の人々に向けて、パウロが書き送った手紙の中の言葉です。 「皆一つの体となるためにバプテスマを受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 目が手に向かって、お前は要らないとは言えず、また頭が足に向かって、お前たちは要らないとも言えません。」とまで表現しています。 「あなたがたはもっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい。」と訴えているなかで、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」と語られた「愛の賛歌」であることを、私たちは忘れてはならないと思います。
ここでパウロが語っている「愛」とは、自身が体験した「神の愛」です。 よみがえりの主イエス・キリストの語りかける声でした。 パウロが体験した「神の愛」とは、神に知られていることを知ったことです。 神に愛されていることに気づいたことです。 イエス・キリストの十字架の姿を通して神を見ることができたことです。 この「愛」は自分が勝ち取ってきたものでも、築き上げてきたものでもない。 神からいただいた最高の霊の賜物であることを、パウロは決して忘れません。 ですから、「この霊の賜物によって生きる最高の道、神の愛の道を教える」とバラバラになってしまっているコリントの教会の人々に向けて語っているのです。 この「神の愛」がなければ、たとえ雄弁な言葉を語る賜物を与えられていたとしても、「騒がしいどら、やかましいシンバル」である。 たとえ、真理や奥義や知識をもっていたとしても、また、
山を動かすほどの信仰をもっていたとしても、「神の愛」がなければ無に等しい。 たとえ、全財産を投げ出し、自分の命をさえもささげて人の前で誇ることができたとしても、「神の愛」がなければ、神の前に何の益もないとまで言います。 4節から7節に、その「神の愛」が記されています。 すべて主語は「神の愛」です。 愛のある人とは、このような人であるとは書かれていません。 パウロが体験した「神の愛」こそ、十字架にかけられたイエス・キリストの姿です。 「あなたの右の頬を打つなら、左の頬を向けなさい」と語り、その十字架の上で、私たちが決して赦すことのできない者を「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」と執り成しの祈りをささげてくださっているイエス・キリストのお姿そのものです。 この「愛」は、私たちには備わっていないものです。 イエス・キリストによって、この世にもたらされた新しい愛です。 神のもとからしか出て来ない、神に与えられるものです。 どのような相手であったとしても、どのような状況にあったとしても、分け隔てることなく、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」神の愛です。 この愛が、私たちの破れ果てた愛を覆い、癒し、包んでくださいます。
パウロが語った愛の賛歌は、混乱に満ちたコリントの教会に向けて語られた「神の愛」です。 この「神の愛」が、帰ってきた放蕩の弟息子も、その弟息子を裁く兄息子も分け隔てなく招いて、恵みと喜びの「父の家」を造り上げます。 この「神の愛」に応えるように、この「神の愛」に委ねるように、この「神の愛」に生きるようにとパウロは訴えているのではないでしょうか。 教会は、この「神の愛」によって償われた者の集まりです。 ですから、互いに「神の愛」ゆえに赦し合い、愛し合います。 この「神の愛」によって、信仰と希望に支えられて生きる教会、キリスト者にしていただきます。 神を信じている、神に望みを抱いている、神に愛されている。 この神との交わりだけが、「いつまでも残る。」 その中でも最も大いなるものが「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」神の愛であるとパウロは言っています。