「聖霊を受ける」 使徒言行録 2章37~42節
「聖霊が降る、聖霊を受ける」とは、私たちの信仰にとってどのような意味のある出来事なのでしょうか。 ヨハネによる福音書によりますと、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、あなたがたに平和があるようにと言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。 弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。 あなたがたに平和があるように。 父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。 聖霊を受けなさい。」と記されています。 これから自分たちの国が復興されるであろうと得意満面になってエルサレムの都に入ってきたのに、その肝心のイエスが処刑されてしまった。 ついてきた自分たちはどん底へ蹴落とされてしまった。 師と仰いで従ってきたそのイエスを一人残して逃げ出してしまった、自分たちの哀れな姿に打ちのめされて沈んでいた弟子たちでした。 息を潜め、肩を寄せ合って閉じこもって絶望に沈んでいたところに、「家の鍵、家の戸の中」という見える壁を越えて、「あなたがたはもはや赦された。 わたしの十字架の死と復活によって神の子どもとしての道、神との平和が再び取り戻された。」と語り、その証しにお見せになったのが、「打たれた釘の傷跡、突かれた槍の傷跡」であったのでしょう。 「そのわたしが今、ここに立っているではないか。 私が吹きかける私の息を受けなさい。 神のもとからくる聖霊を受けなさい。」と「聖霊が降る」というペンテコステの驚くべき出来事をヨハネはこのように語っているのです。 この群れからこぼれてしまった十二弟子のひとり、ユダの存在を憶えます。 十字架の業が成し遂げられるために必要な人物であったでしょう。 しかし、イエスを裏切ったのは、ユダひとりでしょうか。 すべての弟子がイエスを裏切ったはずです。 何度もイエスを裏切り、失敗を繰り返したペトロも同じです。 しかし、ユダは自分で自分を裁いてしまって、イエスのもとに帰ってくることがありませんでした。 しかし、ペトロは恥ずかしくとも、向きを変えて復活されたイエスのもとに駆け込んできた。 その時に、自分がこれほどまでに愛されていることが分かった。 自分の弱さや小ささを知らされたペトロは、イエスの吹きかける息を受けとめることによって変えられていったのです。 使徒言行録では、復活の事実を知らされ、40日もの間、復活されたイエスに何度出会っても何も変わらなかった弟子たちが激変した。 イエスがどのようなお方であるのか、大胆に証言するようになった。 その境目がペンテコステの出来事であったと言うのです。 聖霊が降ったのは、弟子たちが心を合わせて熱心に祈っていたところでした。 一同が一つとなって集まっていたところでした。 これがイエス・キリストの群れ、教会の誕生です。 聖霊によって新しい命を吹きつけられた、神のもとを離れてしまった私たち人間を取り戻すための新しい人間の創造でした。 言い換えれば、共に一緒に生活をしてくださったナザレ人イエスが、再び「聖霊」として自分たちとともに歩んでくださると確信した時でした。 このイエスの復活の信仰の確信が与えられた、私たちの教会の出発点でした。 弟子たちの語り出す言葉によって、弟子たちが味わったと同じ出来事が次々と拡がっていったと語っているのが今日の聖書箇所です。 「悔い改めなさい。 めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。 そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられるものなのです。」と、まったく変えられたあのペトロの言葉を通してイエスの言葉そのものが語られたのです。 この時の弟子たちに起きた体験が繰り返し私たちの歴史においても、私たちの小さな生涯の歩みの中にも起きているのです。 イエスが聖霊として働いてくださっている証しです。