秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「すでに、あらゆるところに蒔かれた種」 マルコによる福音書4章1~9節

2017-03-05

 パウロは、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)と言い切っています。 信仰は聞くことである。 信仰はイエス・キリストの言葉を聞くことによって始まると言います。 イエスはご自身のみ言葉を「よく聞きなさい。 聞く耳のある者は聞きなさい。」と、だれにでも分かるたとえを用いて語っておられます。 蒔かれた種は道端に落ちれば、鳥にさらわれてしまう。 石だらけで土の少ないところに落ちれば、根がないために枯れてしまう。 茨の中に落ちれば、茨が邪魔をしてふさいでしまい、実を結ばない。 しかし、良い土地に落ちれば、芽生え育って、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ。 このたとえは、イエスのみ言葉を聞く私たちの態度だけをイエスは語っておられるのでしょうか。 福音書は、「種を蒔く人が種まきに出て行った。」と語り出しています。 「種」だけに注目すれば、神の言葉はだれの目にも分かる形では決して蒔かれていない。 力強い大きな存在としてではなく、小さな存在として種が蒔かれていると語っています。 しかし、その中に、神の言葉の力が秘められている、隠されている。 自ら芽生え、育ち、実を結ぶ力が備えられている。 その種が、神が定められた時に、人間のあらゆる抵抗を打ち破ってみ言葉の力があふれ出る時がくる。 その時を希望をもって待ち続けなさいと言っておられるのです。 「土地」に注目すれば、三種類の「種の成長を妨害するものがある土地」と、「種の成長を妨害するものがない良い土地」が語られています。 「良い土地」とは、どのような土地であるのか一切語られず、神の祝福だけが語られています。 元々は、土地には種は蒔かれていなかったのです。 私たちは、初めから種をもっていないのです。 まして、自分だけで成長させ、実を結ばせる力などないのです。 「種を蒔く人」が出かけてきてくださったから、実を結ぶ希望が与えられたのです。 蒔かれた「種」は、それぞれの「土地」と無関係に働くわけではない。 神の言葉が、生きた私たち人間と出会い、その交わりによって育まれ、神の国をもたらすのです。 「土地」には受身であるけれども、役割があるのです。 本来なかった「蒔かれた種」が授けられた、託された責任があるのです。 神の言葉は、「種を蒔く人」によって様々な形で、もうすでに蒔かれています。 あらゆるところに蒔かれています。 蒔かれたところは、良い土地であると信じて「種を蒔く人」によって蒔かれ続けています。 終りの時には、収穫される実がなると信じて蒔かれているのです。 イエスはこのたとえによって、父なる神がその「種」を育ててくださると約束しています。 私たちはそれを受け止めて、しっかりと離さないことです。 私たちは、「種を奪う者」のしつこい力を知らなければなりません。 一方で、「種を見失う者」の自分の弱さもまた、わきまえておかなければなりません。 信仰をもって受け入れておかなければ、その「種」に秘められた力を持ち続けることができないのです。 イエスは、この秘められた小さな存在である「種」を与えようとして、「よく聞きなさい。 聞く耳のある者は聞きなさい。」と語り、父なる神との交わりに招いてくださっているのです。 「初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。 『光あれ』 こうして光があった。 神は光を見て、良しとされた。」と、創世記1章1~3節に記されています。 暗闇の何も見通すことのできない世界に「光あれ」と、その中心に光を置かれたのです。 言葉による創造です。 私たち人間は、この神の言葉に応える者として創造されたのです。 何の秩序もない混沌の面に、神の霊が動いていたのです。 この世界は、この神の言葉に根底を支えられて創られた世界なのです。 「天地は滅びるが決して滅びない」(マルコ13:31)と言われたイエスの言葉に、本気で立ち上がってみましょう。 



バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元