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「主を賛美するために創造された民」 詩編102編2~19節

2017-02-26

 イエスは、「求めなさい。 探しなさい。 門をたたきなさい。 だれでも、何の理由であっても、父なる神が耳を傾けて待っていてくださる。 自分の貧しさや足りなさを心底知らされ、恥ずかしさも遠慮も乗り越えて大胆に主のみ前に打ち明け続けるなら、必要なものは何でも、だれでも与えられる。 父なる神は私たちの必要なものをすべてご存じである。 もっとも良いもの、すばらしい賜物を与えてくださる。 だから、祈りは必ず聞かれる。」と言われました。 「祈り」は、神を執拗に呼ぶことです。 神に何でも打ち明けることです。 神こそが、私たちに「祈り」を与え、「祈ること」を求めておられるのです。 私たちはこの待っておられるお方を信じ、信頼して祈ることです。 ある人は、「主との交わりこそ、祈りの足跡である」とまで言われました。 私たちはこの地上の生活の中で圧迫され、虐げられ、抑えつけられればられるほど、主の名を呼び、主のみ心を尋ね、主のみ国を求めて叫ぶのです。 この詩編の「主よ、わたしの祈りを聞いてください。」と、直接主に語りかけています。 「わたしの祈り」を「わたしの叫び」と言っています。 この章で4回も使われている「わたしの生涯」という言葉が示すように、全身から発する「叫び、祈り」です。 「わたしの叫びを聞いてください。 この叫びがあなたに届きますように。 御顔を隠すことなく、御耳を向け、あなたを呼ぶとき、急いで答えてください。」と、ありのままに主に迫っているのです。 この詩が歌われた時代背景は、イスラエルの民が異教の地バビロンに囚われていた時期の末期であると言われています。 このバビロン捕囚が終わり、エルサレムに戻って行くことが赦されて始まっていた。 しかし、この詩人は「わたしの生涯は煙となって消え去る。」 年老いたためか、病気のためか、夢にまで見ていた故郷エルサレムに帰ることができない。 「わたしの力が道半ばで衰え、生涯が短くされようとしている。」と嘆いています。 慰めてくれる友もなく、激励してくれる人もいない。 主までもが、「わたしを持ち上げて投げ出された。」とまで叫んで、取り扱いの理由が分からないと訴えています。 私たちの小さな生涯では、もう破綻してしまうと思わされる時が度々あります。 しかし、人の業の終りは、神の業の始まりです。 信仰に立った多くの人々が叫んだ「わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのですか」という祈りを、主イエスは十字架の上ですべて背負ってくださったのです。 このお方の「叫び、祈り」によって、過ちを犯し続けた私たちが過去に死んで、新しく生きることが赦されたのです。 このお方が、「信仰がなくならないように、誘惑に陥らないように祈りなさい。」と言っておられるのです。 もはや、この詩人の絶望の「祈り」はこのお方によって慰められています。 その試練は克服されています。 13節から詩は一変します。 絶望のどん底にいた詩人の夜明けです。 「恵みのとき、定められたときが来ました。 主を賛美するために民は創造された。 死に定められていた人々を解き放ってくださいました。 主の御名を唱え、主を賛美するために、ひとつに集められる。 そして、主に仕えるために集められる。」 この約束を、詩人は知ることができたのです。 自分はそこに立ち戻ることはできないけれども、無念の思いはあるけれども、主はこの私の「すべてを喪失した者の祈りを顧み、聞いてくださっていた。 この祈りを、主は侮られなかった。」 この信頼と感謝が、この詩人の祈りに貫かれているのです。 自分の状況は何ら変わらなくても、主の業は私たちの死を越えて永らえる。 ですから、このお方に委ねることができる。 委ねる「祈り」が与えられる。 叶えられかった者も、叶えられた者も、ひとつの民として約束の地に招かれることになる。 ひとりの人の「祈り」は、すべての人々の叫びを背負ってくださった主イエスにある群れの「祈り」に連なるのです。 



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