「ナザレの人イエス」 マタイによる福音書5章1~12節
(渡部協力牧師)
一年前の今頃、日本語で出版された「共観福音書が語る【ユダヤ人イエス】」という本に衝撃を受けました。 新約聖書の本文は、ギリシャ語。 旧約聖書は、ヘブライ語、と習ってきましたから・・・。 この本がいうには、イエスはユダヤ人ですから、話された言葉はヘブライ語。 聴きに集まった人たちの多くもユダヤ人であり、イエスのあちこちで話された言葉をメモや後で記憶から収録したのは、ガリラヤ湖で漁をしていたペテロやアンデレなど、イエスの弟子とされたユダヤ人たちであった。 ですから、後にイエスの弟子たちが、「イエスの生涯」を記録しようとした「共観福音書」(マタイ、マルコ、ルカ)は、最初ヘブライ語で書かれたに違いない、と推定しているのです(イエスの弟子たちが書いた断片が、見つかっていないので、断定はできません)。
本【ユダヤ人イエス】は、日本の「ミルトス」出版社の編集出版ですが、その中心には、キリスト教会(米国 南部バプテスト)の牧師・研究者とヘブライ大学教授で旧約聖書の権威の二人が1962年にエルサレムで出会い、後に「共観福音書研究 エルサレム学派」と呼ばれるキリスト教・ユダヤ教双方の研究者の大きな、優れた組織になりました。 その結果の一部を、今朝紹介させていただきますが、主イエスの「山上の説教」と呼ばれる箇所です。
言葉には、その国、その民族固有の表現や独特の意味合いがあります。 もし、最初ヘブライ語で書かれたものを、ギリシャ語に翻訳すれば、本意と異なる訳になったり、意味が受け止められないこともあり得ます。 「共観福音書研究」では、単なる言葉の問題だけではなく、「旧約聖書」(ユダヤ教では、聖書)とタルムード(ユダヤ教口伝律法を編纂したものの総称)などを動員して比較、検討。 「律法の教師」でもあった、イエスさまの語られた言葉の真実に迫ろうとしたわけです。 その結果、いろいろなことが分かるようになりました。
マタイ福音書5:1~10
この箇所には、「義」という言葉が6,10節に出てきます。 研究者たちは、ヘブライ語の義は「救い」と同義語であるといいます。 すると「義に飢え渇く人」とは、神の救いを熱心に求める人、の意になります(マタイ6:33参照)。 また、10節に、「迫害する」(ラダフ)という語が出てきます。 この語には、①「追い求める」、「追跡する」の意と、②「迫害する」、の二つの意味があるといいます。 ですから、10節は、「義=救い、を追い求める人」となるべきだ、というのです。 「義のために迫害される」とする訳が、その後のキリスト教信仰の中に、大きな影響を与えたことを歴史は教えています。 また、今日の信仰とも無関係ではないでしょう。 神が授けてくださった「聖書」は、新・旧約を通じて、罪深く限界のある私たちにとって、神の子イエスの十字架の死を通して示された、神の許しと愛の「福音」です。 聖書の無謬説に立つ人もおりますが、時代と共に、聖書の真理探究が深められ、神の御心がさらに明らかにされていくことは大切ではないでしょうか。