「憐れみ深い者となりなさい」 ルカによる福音書6章27~36節
主イエスは、「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。」と呼びかけます。 聞いているのは、イエスの呼びかけに従って来て、今、そば近くにいて、静かに耳を傾けている弟子たちです。 これからもずっとイエスとともに歩んで行きたいと願っている弟子たちです。 その弟子たちに「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」とイエスは言います。 「敵」とはだれのことでしょうか。 「あなたがたを憎む者」、「あなたがたに悪口を言う者」、「あなたがたを侮辱する者」、「あなたがたの頬を打つ者」、「あなたがたの上着を奪い取る者」です。 しかし、そういう人たちに親切にし、祝福を祈り、もう一方の頬をも向け、拒ばないことができるでしょうか。 人間の世界ではありえない、納得できない、理屈が通らない、理由が分からないことです。 イエスは、これからご自身と一緒に歩むことになる弟子たちに、これらの「敵」にあなたがたは取り囲まれて生きていくことになる。 そうであるけれども、「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい」と言っておられるのです。 この世の人たちは、自分を愛してくれる人を愛する。 自分によくしてくれる人によいことをする。 それでも、「あなたがたは、敵を愛しなさい」と言っているのです。 イエスは「愛する」という教えや行いを、弟子たちに説いているのではありません。
イエスは弟子たちに、「あなたがたに新しい掟を与える。 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と言われたのです。 「わたしがあなたがたを愛したように」です。 ここに選ばれて、招かれて、従ってきている弟子たちは、イエスによって愛された、赦された体験があるのです。 そのイエスの赦し、愛を心のうちに宿して、生涯をかけてイエスに従ってきているのです。 イエスは当然のように、「あなたがたは敵を愛するようになる」と言われるのです。 愛するためには、相手を必要とします。 自分一人ではできないものです。 人と人の交わりのなかに、神と人との交わりのなかに初めて生まれ出てくるものです。 イエスが語られた「敵」こそ、この交わりを壊し、引き裂くものです。 私たちがこの「敵」を愛することができないのは、赦すことができないからです。 イエスはこのために地上に来たと言われました。 神との交わりを失ってしまった私たちに、回復の道を整えるためです。 自分こそ交わりを壊すものでありながら、人を赦すことができなくなってしまった私たちの過ちを担うためです。 そのためにイエスは私たちのもとへ遣わされたのです。 イエスは十字架のうえで、その苦しみや痛みを担いながら、「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」と、ご自身を十字架に架けた私たちのために祈られたではありませんか。 父なる神に祈って、赦しを求め、とりなしてくださったではありませんか。 この十字架によって初めて、私たちは赦される、愛されるという恵みを知らされたのです。 自分ができるとかできないとかという問題ではない。 もうすでに、この無条件の恵みの世界に私たちはあるのです。 イエスのように、すべての人の過ちを担い、赦すことなど私たちにはできません。 しかし、自分にしか赦すことのできない人の「過ち」があるはずです。 自分にしか愛することのできない人が、そば近くにいるはずです。 イエスはそのために祝福を与え、恵みを与えて、周囲はどうであれ「しかし、あなたの敵を愛しなさい」と呼びかけてくださっているのです。