「知らない食べ物」 ヨハネによる福音書4章31~38節
サマリアの女性とイエスとの出会いがなぜ、私たちの心を打つのでしょうか。 イエスと弟子たちにとって、通らなくてもよかったサマリアの地のはずです。 多くのユダヤ人は遠回りをしてでも、サマリアの地を避けて通った時代でした。 イエスは明らかに何らかの意図をもってサマリアの地に向い、この井戸端でひとりの人を待っていたのです。 サマリアはガリラヤに向かう通過するだけの地、そのように弟子たちもまた思っていた。 のどの渇きを潤すために、イエスは井戸の水を求めてその井戸端に休んだと思っていたに違いありません。 しかし、そうではなかった。 この女性は、ユダヤ人から差別を受けていたサマリア人でした。 その地で、サマリアの人々からも疎まれ、誰とも交わることのなかったひとりの罪人でした。 そのたったひとりの女性に出会うため、イエスはその井戸を目がけて前もって行き、そこで待っていたのです。 「井戸の水を飲ませてください」と語りかけ、「渇くことのないまことの活ける水を与える」と迫るためでした。 「あなたの夫をここに連れて来なさい」と、彼女が隠し続けてきた問題の核心を、目の前に差し出しなさいと迫るためでした。 主イエスは私たちの歩みに先んじて、待っておられます。 私たちが生活しているところにまで立ち入ってくださって、ご自身の方から語りかけてくださいます。 頑なに心を開こうとしない私たちに、全力を傾けてくださいます。 私たちは、その主の姿に、霊の目を開かされて心が動かされるのではないでしょうか。 今日の箇所は、このイエスとサマリアの女性との出会いの合間に挟まれて記されている、弟子たちとイエスとの対話です。 町に行って用意してきた食事をすすめた弟子たちに、イエスは「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言います。 サマリアの女性が井戸の水のほかに「活ける水」があることが分からなかったように、弟子たちもまたパンのほかに「もうひとつの食べ物」があることが分かりませんでした。 女性に「活ける水」を与え終わったイエスは、今度は、町から戻ってきた弟子たちに「もうひとつの食べ物」を与えようとされます。 「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」 神の口から出る一つ一つの言葉によって知らされる神の御心を行うことが、「あなたがたの知らないわたしの食べ物である」とイエスは言うのです。 「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。 今がその時である。 なぜなら、父はそのように礼拝する者を求めておられるからだ。」 この父のみ心を行うこと、ご自身に一人一人を結びつけていくこと、これが地上の生涯でのイエスの生きる力、霊なる食べ物であったのです。 サマリアの女性も、弟子たちもまた、この信仰の世界に一人一人を結びつけるため、主イエスは忍耐強く呼びかけてくださるのです。 そして、すでにご自身とつながり、父なる神との交わりの中にある一人一人の姿を、「もうすでに、刈り入れる人は神の報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。 こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜んでいる。」 神の言葉を成し遂げてくださったイエス・キリストの苦難によって与えられた種を私たちは蒔き、刈り入れ、神の業に用いられていることにより、「蒔く喜び」も「刈り入れる喜び」も与えられているのです。 サマリアの地で一人の女性の身に起きた出来事は、一人の収穫の時が突然起きた神の業でした。 しかし、一人の女性の証言によって、そのサマリアの地に宣教の働きが拡がって行ったのです。 弟子たちが、このイエスの種蒔きによって後にこの地で多くの刈り入れをしたのです。 すべては、この主イエスの先立つ歩みでした。 霊の目を開かせてもらわなければ見ることのできない収穫の業でした。