「復活のからだ」 コリントの信徒への手紙一 15章42~49節
イエスは十字架に架けられて処刑されました。 イエスを処刑にまで至らせた人たちにとっては、これで「問題の種は摘み取られた。 問題は解決をした。」と思ったことでしょう。 イエスに従い続けて来た弟子たちにとっては、「すべてが終わった」と人生がひっくり返った瞬間であったでしょう。 それが、ヨハネによる福音書によれば、たったひとりの女性の「わたしは主を見ました」というひとつの証言から、新しい歩みが起こされていきます。 すべてが終わったと思われたことが、新しい始まりとなっていったのです。 しかし、聖書が語っている「復活」は、死から生き返るという人間の現象を語っているのではありません。 「イエス・キリストというお方のよみがえり」、「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」と言われる「イエスの復活」を語っています。
パウロは、「私たちの復活」とは、種まきとその収獲というごくありふれた自然の風景の中にある姿と同じであると言います。 創造者である神が初めに、小さな種に命を吹き入れてお造りになられました。 そこには、神の創造の意志が込められています。 その命にふさわしい「からだ」を、神は用意してくださっているはずです。 その一つずつの種を養い、それぞれにふさわしい「からだ」を与えて、収穫を待ち望まれます。 かつて、小さな種粒であったものが、それぞれに形を変えたふさわしい体が与えられて、最後に収穫されていく。 自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活する。 それが、最後には神によって収穫される。 これが「私たちの復活」と同じであるとパウロは言うのです。 この神に応えて生きていく者として創造されたはずの私たちが、神を侮り、自分に過信し、神なしで生きていくことができると自分勝手な道を歩んでしまった。 それをもう一度、取り戻すために、神のもとから遣わされたお方が、「最後のアダム」と記されているイエスです。 この十字架に架けられ、よみがえられたイエスが、神のもとを離れてしまった私たちを回復させるために、「命を与える霊になられた」と表現されているのです。 残念ながら、生まれながらの私たちには、このような霊が備えられていません。 これは神に属するものです。 神から与えられる特別な賜物です。 この「与えられる霊」の命にふさわしい「からだ」が、「霊のからだ」です。 イエスはこのために、私たちと同じ「自然の命のからだ」をお取りになって、この地上の生涯を歩み、もとの神の国に属するものになるのにふさわしい「霊のからだ」となって戻ってくださったのです。 「私たちの初穂」となって収獲されるための「よみがえり」でした。 これが、「イエスの復活」の意味です。 私たちは、このイエスの新しいからだ、「霊のからだ」に与かることができるようになった。 この約束の希望に生きていくことができるようになった。 このことが、「私たちの復活」の意味です。 ですから、私たちの生涯は、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときには、卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する。 イエスに似た者となる。」とパウロは言うのです。 最初のイースターは、絶望と敗北の中に訪れました。 悲しみと恐れの中に、信じることができないようなところに訪れました。 そこに、「朽ちないもの、輝かしいもの、力強いものに復活する」という神の約束と希望が与えられました。 なぜなら、そこには、イエス・キリストという「命を与える霊」がともにあるからです。 私たちには、この神の約束を信じる「信仰」がすでに与えられています。 それが必ず果たされるという「希望」が与えられています。