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「からし種一粒の信仰」 ルカによる福音書17章5節~10節

2015-11-15

 「からし種」とは、パレスチナ地方で自生していた、栽培されていた「くろがらし」の種のことです。 ふっと吹いたら飛んで行ってしまうほどのほこりのような小さなものです。 ところが、その蒔かれたその種が大きく成長すると、茎の高さが3~4メートルにもなり、そこに鳥がとまるほどになるそうです。 身近にあったこの「からし種」を用いて、「からし種一粒のほどの信仰」とイエスが語られた意味を共に味わいたいと思います。 
 イエスの弟子たちは、あちらこちらで病人や子どもを癒し、力強く働いておられるイエスの姿を見て、「なぜ、わたしたちは悪の霊を追い出すことができなかったのでしょうか。」 「わたしどもの信仰を増してください。」と、イエスに訴えます。 信仰があればこそ、主イエスに信頼し従っていくことができる。 自分にはその信仰が足りないと思うからこそ、私たちは自分の信仰を増し加えてくださいと祈り願うのです。 その時に語られたイエスの言葉が、この「からし種一粒のほどの信仰があれば」と言うのです。 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」 別のマタイによる福音書では、「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向って、『ここからあそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。 あなたがたにはできないことは何もない。」と、主イエスは言っておられるのです。 使徒たちは、自分たちの信仰が増し加わっていくことを望みました。 しかし、イエスは、信仰は増えたり、減ったりするような「量」で量れるものではない。 その大きさや小ささではないと言っておられるのです。 また、使徒たちは「自分たちの信仰が増し加わるように」と、もっとしっかりとした信仰を持ちたいと願いました。 しかし、イエスは信仰をそのような「持つもの」ではない。 自分たちが積み上げていくような持ちものでもない。 能力や資格や力のような所有物でも、獲得していくものでもない、その都度ふさわしく与えられるものであると言います。 
 なぜなら、父なる神は言葉をもってこの地上を創造されました。 私たちを、この神の言葉に応える者として造られました。 この神の言葉は、主イエスを通して私たちの歴史に響きわたっています。 だれが何と言っても、この聖書の言葉の背後には、このみ言葉を成し遂げないではおられない神の力強い愛と真実と意志があります。 そのご自身のご計画を成し遂げるために、私たちを用いられる。 私たちに祈りを起こして、信仰を与える。 信仰は、この神のみ業を果たすために与えられるものです。 神の言葉は、この地上を造り、再び造り変えることのできるほどの大きな神の力、約束です。 そのために「からし種一粒ほどの信仰」が用いられるのです。 ですから、「からし種一粒ほどの信仰」が、もし私たちに与えられるなら、不可能なことはないと言われるのです。 信仰は、私たちの中にある力でも、資格でもありません。 神のみ言葉を果たすようにと、最もふさわしく与えられる神の力と希望です。 神にできないことは何もありません。 イエスは、この神と人との関係にある信仰を、「主人と僕の譬え」を用いて語っておられます。 僕が、主人より先に、食事の席につくであろうか。 命じられたことを僕が果たしたからと言って、主人に感謝を求めるだろうか。 主人に仕えることが、私たちに与えられた「仕事」です。 私たちの主人は、私たちの足をひざまずいて洗って僕に仕えてくださるお方です。 そのお方の命じられたことを果たすことが「信仰」です。 そこに、本当の「喜び」があります。 この神の業に用いられるところに、本当の「感謝」があります。 そのために、祈り、聖霊、信仰が与えられると言っています。



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