「平和を創り出す者」 マタイによる福音書5章9節
新共同訳聖書では、「平和を実現する人々は、幸いである。 その人たちは神の子と呼ばれる。」 口語訳聖書では、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。 彼らは神の子と呼ばれるであろう。」 新改訳聖書では、「平和をつくる者は幸いです。 その人は神の子どもと呼ばれるからです。」とあります。 いずれも、「平和を実現する、平和をつくり出す、平和をつくる」人々は幸いである、と語られています。 14年前に、同時多発テロが発生し、アメリカの軍事力の象徴とも思える建物がテロの標的になりました。 もはや世界には、安全な場所などどこにもない。 この地上にどこにも、平和で覆い尽くされるところはない。 平和を創り出す方法など、この地上に存在しないのではないかと思わされました。 イエスは、平和を受けている人たち、平和の中にある人たちが幸いであるとは言っておられません。 今、どのような状態にあろうとも、「平和を実現する人たち、平和をつくり出す人たち、あなたがたは幸いである」と言っておられるのです。 イエスが語るこの「平和」とは、いったい何でしょうか。
聖書の言う「平和」とは、ヘブライ語で「シャローム」です。 イエスは、弟子たちを町や村に派遣するにあたって、この言葉をもって送り出しました。 「シャローム、平和があるように」と、町や村の人々に「神による平安」を祈ってあげなさいと、弟子たちを遣わしたのです。 旧約聖書のモーセの時代、モーセに従うアロンたちに、神の祝祷が与えられました。 「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。 主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。 主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように。」(民数記6:24-26)とあります。 神によって祝福されている、守られている、豊かに恵みが与えられている。 この神との交わりの中にいる。 この信仰生活そのものの祝福を、「シャローム、平和」と聖書は語っています。 この時のことだけではありませんでした。 弟子たちが、イエスが十字架にかけられ意気消沈し、恐怖に脅え部屋に閉じこもっていた時です。 家の戸に鍵をかけて周囲を恐れていた弟子たちの真ん中に立って、傷ついた手とわき腹をお見せになってこう言われたのです。 「あなたがたに平和があるように」 このイエスの短い言葉によって、弟子たちは霊を注がれ、悲しむべきことを深く悲しむ力が与えられて、悲しみが喜びに変えられたのでした。 このよみがえられた「キリストの平和」を自分たちの体に刻みつけて、今度はこの祝福の証人として、「キリストの平和」をつくり出す者として、再び送り出されたのでした。 イエスは人の心の外にある見えるものを問題にしないで、人の心の中にある「敵意、憎しみ、恨み」を問題とされました。 これによって「真の平和」は破壊されます。 人の隠れた罪によって破壊されます。 きれいな装いに仕立てられた「偽の平和」によって、阻まれます。 「偽の平和」は、平和を主張する者どうしのぶつかりによって長続きしません。 そこでは、自分たちの罪に目が届かないのです。 「真の平和」は、イエス・キリストの十字架による救いによってしかもたらされません。 パウロは、「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に和解を得ている。」(ローマ5:1)と言います。 この神との和解を得ている者が、神の子と呼ばれるのです。 「キリストの平和」をもたらす使者となるのです。 「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです。」(ヤコブ3:18)と言います。 「真の平和」は、キリストの十字架の愛に出会った人たち、神の愛に触れた人たちによって蒔かれる、創り出されると語っています。 私たちは、この恵みと、希望と、務めを神の賜物としていただいているのです。