「霊的な家に造り上げられる」 ペトロの手紙一2章1~10節
主イエスが十字架に処刑された際には、自分たちの身にふりかかる危険を素早く察知して、主イエスのもとを離れてしまった弟子たち。 自分たちのいる家の部屋に鍵をかけて閉じこもっていた用心深い弟子たち。 そのような弟子たち一同が、突然、イエスの十字架と復活の出来事の証し人として、自らの言葉で語り始めました。 あれほど、イエスに頼り切っていた弟子たちが、自ら語り始めました。 ほかの国々の言葉など知るはずもない弟子たちが、それらの言葉を用いて語り始めたと聖書は記しています。 そうさせたのは、弟子たち自身が聖霊に満たされたからです。 すべての準備がなされ、万全の体制ができあがったから、彼らは自信をもって語り始めたのでもありません。 「神の霊」が弟子たちに語らせたのでした。 閉じこもっていた部屋の鍵を開けて外に向かわせたのも、「神の霊」による働きであったのです。 このペンテコステの出来事は、この地上での主イエス・キリストの働きが、聖霊による弟子たちの働きへと移った瞬間でした。 「主イエス・キリストのこの地上での旅の終り」が、同時に、よみがえられた主イエスの霊とともに歩む「神の民の旅の始まり」となったということでした。
こうして始まったこの地上でのキリスト者の群れの歩みは、困難を極めていきます。 紀元一世紀末のキリスト者は、その当時の社会一般から秩序を乱す危険な存在として烙印を押されていました。 ペトロがこの手紙のなかで「生まれたばかりの乳飲み子」のようだと言っているのは、まさしく生まれたばかりのキリスト者たちの群れ。 各地で、社会的な排斥と非難の中に閉じ込められ、その厳しい現実に直面させられている生まれたてのキリスト者たち。 その信仰をペトロは危惧をして、励ましの手紙を送っているのです。 部屋に鍵をかけて閉じこもっている、まさに生まれたての私たちに、「混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」とペトロが勧めます。
ペンテコステの出来事は、神の霊の突然の働きでした。 弟子たちの準備とか、弟子たちの心の状態とかにはまったく無関係に、ただ神の霊の働きに導かれて起きた出来事ではなかったでしょうか。 弟子たちは、神の霊に満たされたからこそ、神がともにいてくださる、守ってくださると体験することができました。 この霊の働きを知ることができたからこそ、人に対する恐れを捨て去ることができた、外に向って鍵を開けることができたのではないでしょうか。 ですから、ペトロは、困難を極めている生まれたてのキリスト者の群れに、「混じりけのない霊の乳を慕い求めなさいと勧めるのです。 この「霊の乳」を飲んで成長し救われるようになるために、「主のもとに来なさい」と言います。 人によって捨てられたものが、神によって「選ばれた、尊い、生きた」ものとされたお方のもとに来なさい。 その上に、あなたがた自身の「霊的な家」をつくり上げられるようにしなさいと勧めるのです。 イエス・キリストのもとに行って、イエス・キリストの上にあなたがた自身の「霊的な家を造ってもらいなさい」と言っているのです。 人の目には、まったく意味がないと捨てられたものが神に尊ばれるものになる。 ですから、「決して失望することはない」と言うのです。
私たちは決してひとりではありません。 神とともにあります。 神に選ばれた者とともにあります。 私たちは、人に捨てられましたが、神に選ばれ、尊ばれ、生かされた唯一の生きた石、主イエス・キリストの上につくり上げられた霊の家に結びつけられた者なのです。