秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「彼らをお赦しください」 ルカによる福音書 23章32~43節

2015-03-15

 今、私たちは4月5日のイースターまでのレントと呼ばれる受難節に入っています。 イースターが、復活の命を受け取って私たちが立ち上がって歩み出す時であるとするなら、今のこの時期こそ、私たちは静かに立ち止まって主の十字架を仰ぐ時なのではないでしょうか。 この主の十字架を、「十字架の上で語られた主イエスの七つの言葉に集中して耳を傾けたいと思います。 その十字架のうえで最初に語られたと言われているイエスの言葉に注目します。 「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」 このお言葉でした。 十字架につけられたイエスの刑は、釘づけの刑であったと言われています。 手や足に釘を打ちつけられたのでしょう。 わき腹も槍で突かれたのでしょう。 そして、そのままにそこに放置されたのでしょう。 しかし、聖書は驚くほどそのことを詳しく書いていません。 詳しく描いているのは、十字架のもとにある人間の姿です。 二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 民衆は立って見つめていた。 議員たちも、もし神からのメシアで、選ばれた者なら、「自分を救うがよい」とあざ笑った。 兵士たちもイエスに近寄り、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と侮辱した。 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、「お前はメシアではないか。 自分自身と我々を救ってみろ」とののしった。 すでにそこから逃げ出してしまったイエスの弟子たちも、実際に手を下したローマの兵士たちも含めて、すべての人がイエスの敵となったのでした。 しかし、イエスは、その自分を、今、殺そうとしているこれらすべての人々のために、「父よ、お赦しください」ととりなしの祈りを父なる神にささげておられる。 すべての人の目には、この祈るイエスの姿を、「やはり自分を救うことのできなかった哀れなメシア」だと映っている。 しかし、聖書は、ただ一人そうではない人物がいたことを語ります。 イエスと同じように十字架にかけられたその場所で、祈りを間近に聞いた、自分と一緒に死んでくださろうとしているお方の姿を間近に見た「もうひとりの犯罪人」です。 彼は、今、処刑されようとするその死に際にイエスに出会ったのです。 父なる神がこのイエスを通して裁いているのは、この十字架のもとにあるすべての人々の罪である。 今、裁かれようとしている自分の罪である。 その裁きのために、このお方が十字架から降りようともしないで、そこに身を置き続けておられる。 それだけではない、そこで「彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです」と祈り続けておられる。 ですから、この「もうひとりの犯罪人」はイエスに向って、「赦してください」とは言えなかったのでしょう。 「自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。」 「イエスよ」と呼びかけて、「わたしを思い出してください」と言うのが精いっぱいであったのでしょう。 その祈りに、彼の願いをはるかに超えて、思ってもみなかった約束が与えられたのです。 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」というイエスの祝福でした。 十字架につけられたキリストとともに味わう永遠の「今日」、そして「楽園」です。 今にも死んでゆこうとする「もうひとりの犯罪人」の最後の極みに、入り込んでくださったイエスの約束でした。 彼の精いっぱいの祈りがあったからではありません。 十字架のうえで、血を注ぎながら先立って祈られたイエスのとりなしの祈りがあったからです。 そのイエスの祝福とは、十字架の足もとにあるすべての人の罪からの解放でした。 一緒に死の痛みを担ってくださる十字架につけられたキリストとともにある喜びでした。 思いがけない恵みの喜びでした。



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