「信じて待つ人」 ヨハネによる福音書 2章1~11節
「ぶどう酒がなくなりました」 イエスに向けて語られた、母マリアの必死の祈りの言葉です。 当時のユダヤの婚礼の席に欠かせないぶどう酒が、宴たけなわの中で今にも切れそうになっていることに気づいたマリアの訴えです。 このままでは、せっかくの婚礼の席に傷がつく。 その場が一変するという恐れです。 今からではどうすることもできないことは分かっている。 けれども、何とか用立ててほしいと息子イエスに訴えたマリアの祈りです。 このマリアの訴えに、イエスは「わたしの時はまだ来ていません」と短く答えただけでした。 息子であるにも関わらず、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と答えるイエスになぜですかと問いたくなる。 しかし、イエスは道徳を語らず、父なる神のみこころの時がまだ来ていないという信仰を語ります。 母マリアの願う「時」、今ほしいと願う「ぶどう酒」ではない。 神のみこころの「時」と、神の願う「ぶどう酒」を待っておられるのです。 そのことを察知したマリアは、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と召使たちに命じているのです。 この短いマリアの言葉に、イエスに対する信頼の姿を見ることができます。 祈る人とは、このイエスの言いつけを待っている人です。 困り果てている自分自身を差し出して、神のみこころに向って祈り、待っている人です。 そして、これから起こるであろうイエスの言いつけを、受け取ることができるようにと備えている人ではないでしょうか。 私たちの祈りは、願うだけで留まってはいないでしょうか。 マリアは、その祈りの答えを受け取ることができるようにと備えているではありませんか。
そして、ついにイエスの口から、「水がめに水をいっぱい入れなさい」という言いつけが出てきたのです。 イエスの言う水がめは、汚れた体を洗い流す、清めのための儀式用の水を蓄えるものです。 用意された六つの水がめにいっぱいとは、相当な量です。 召使たちは、なぜ、このような時に何度も井戸に足を運んで水を汲んで来なければならないのか分からなかった。 その満たされた水を「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持っていきなさい」と、召使たちは命じられた。 その意味が知らされる「イエスの時」が、ここに来たのです。 分からないままに、井戸から水を汲んで水がめに蓄えた。 分からないままに、蓄えた水がめからその水を宴会のただ中に運んで行った。 それが、今までとは違ったぶどう酒に変わったことを知ることになったのです。 私たちは、いったいどんな意味があるのだろうと思わされることがあります。 どうしてこんなものを運んでいるのだろうとためらうことがあります。 しかし、それが、その場にもっともふさわしいものに変えられる。 そのことを知らされる「時」が与えられるのです。 イエスは、この「しるし」をガリラヤでの宣教の「最初のしるし」と言っています。 婚礼とは、神の国が訪れた喜びの場です。 そこに、イエスがともに出席されて私たちと一緒に祝福されておられる。 これから「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい」と語り始めた、その信仰を導く「最初のしるし」だと宣言されたのです。 律法の戒めに囚われた儀式用の「水」が新しい味をもった「取っておきのぶどう酒」に変えられた。 その「しるし」を見て信じたのは、弟子たちであったと聖書は記しています。 自分の願いが満たされることだけを求める人は、水がぶどう酒に変わったことに満足するでしょう。 しかし、それを変えたお方に目を向けることができた人、その「しるし」がどこから来たのか知ることができた人が、神の隠された働きを見出し、信じることができたのではないでしょうか。 その「しるし」は、弟子である私たちが信じて、命を得るためです。