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「ヨハネに見る姿」 ルカによる福音書 7章18~30節

2014-12-07

 バプテスマのヨハネの誕生の次第が、イエスの誕生に絡めて語られています。 誕生の時だけではありません。 荒れ野で「罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを授けるように」という神の言葉が降りました。 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」務めを、ヨルダン川沿いの荒れ野一帯でこのヨハネが担ったのでした。 ヨハネはまさに、神の言葉など語られようもない荒れ野でただひとり、神の言葉だけを頼りにした孤立無援の預言者でありました。 「悔い改めにふさわしい実を結べ」と、バプテスマを民衆に迫ったのです。 そのヨルダン川に、イエスもまた民衆の中の一人として、ヨハネからバプテスマを受けるために来られたのです。 民衆は、もしかしたらこのヨハネこそ救い主ではないかと考えていたのかもしれません。 しかし、ヨハネは、ただ「来たるべき方」につなぐだけの存在として自らを語ります。 「わたしは水でバプテスマを授けるが、わたしより優れた方が来られる。 わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」と語ったのでした。 「来たるべき方」こそ、この世の不条理を根底から覆してくださると、信じて疑わなかったのです。 ですから、領主ヘロデの悪事を恐れないで責め立てたヨハネは、この時、そのヘロデによって牢に閉じ込められていたのです。 牢の中にあったヨハネが、二人の弟子を遣わしてどうしても確かめたかったことは、「来たるべき方は、あなたでしょうか」という問いでした。 イエスは、このヨハネの問いに、「見聞きしたことだけを伝えなさい」と使いの二人の弟子に言われました。 その見聞きした事実とは、「目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病を患っている人、耳の聞こえない人、死に至った人、貧しい人」、これらの人たちのうえに起されている人間にはできないことが、今、ここで起されている。 その良き知らせが伝えられている。 これらの救いの事実は、一人一人の願いや期待によって引き起こされたものではない。 また、偶然に起されたものでもない。 長い間の父なる神の救いのご計画の中にあることである。 数多くの預言者たちによって知らされてきたことが、今、時が満ちて起されている。 私たちの勝手な願望や期待に左右されることのない、神の救いのご計画が、今、成し遂げられている、告げられている。 イエスは、今、牢の中にいるヨハネに、そのような事実から程遠いと思われる状況にあるヨハネこそが、この聞かされた事実を「信じる」かと問われたのではないでしょうか。 ヨハネの期待した通りの救い主であると言えば信じるのか。 何か保証を得たら信じるのかとイエスに迫られたのではないでしょうか。
 神の救いの業は、常に私たちの思いをはるかに超えるものです。 私たちの描く願いや希望は打ち砕かれます。 私たちの側に何の資格も保証もない、ただ神の憐れみ、神の恵みによってだけ成し遂げられることを知らされます。 イエスは、そのことを「わたしにつまずかないで、信じる人は幸いである。」と言われたのです。 荒れ野とは、信仰の戦いの場です。 そこに立ち続けて、「悔い改めにふさわしい実を結べ」とバプテスマを叫び続けたヨハネでした。 この「来たるべき方」を指し示すヨハネの叫びがあったからこそ、私たちは方向転換することができました。 指し示す務めを終えて姿を消していった旧約の世界のヨハネの姿があったからこそ、私たちは新しい契約の恵みの世界に浴することができました。 神のみこころは壮大です。 しかし、私たちは古い姿から新しい姿へと、この「来たるべき方」に従おうとして失敗し、倒れて、自らの弱さを知らされます。 その弱さにこそ、本当の強さが宿ります。 なぜなら、その弱さの中に「来たるべき方」、クリスマスの主が共におられるからです。



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