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「マリアの賛歌」 ルカによる福音書 1章46~56節

2014-12-14

 聖書は、クリスマスという出来事のなかに、イエスを胎内に宿しながら、戸惑いながら「みことば」の確かさだけに信頼して生涯を歩んだ、無力なひとりの女性の姿を描いています。 その女性がマリアであり、その時の彼女の賛美の歌が「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。 今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」でした。 「たたえる」とは、喜ぶということです。 「はしため」とは、女性の奴隷、卑しい女、無力な女という意味です。 「目を留めてくださった」とは、目を注ぎ続けてくださったということです。 マリアが賛美の歌声を挙げたのは、「主がおっしゃったことは必ず実現する」と信じたからです。 また、「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」という感謝があったからです。 「力のある方が、わたしに偉大なことをなさったから」と知って、喜んだからです。 この時のマリアの壮絶な覚悟の姿を目の当たりにした者が、聖霊に満たされて言います。 「あなたは女の中で祝福された方です。 胎内のお子さまも祝福されています。 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と証言します。 
マリアのこの時の状態を思い浮かべてみてください。 ナザレという小さな町の、年端もいかない少女でした。そこに、「おめでとう、恵まれた方。 主があなたとともにおられる。 マリア、恐れることはない。 あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と、神のみことばが一方的に告げられました。 マリアは戸惑い、何のことかと思い悩んだ。 とっさに、ユダヤの厳しい戒めがマリアの頭をよぎった。 婚約者によらない妊娠が、わが身に宿る。 何かとても困ることが起きると予感がして、不安を抱いた。 ですから、「どうして、そのようなことがありえましょうか」とみことばに反論したのです。 しかし、次第に自分の体の異常に気づいていったマリアは、変わっていきます。 これから身ごもって宿される子は、偉大な人物になる。 「あなたは神から恵みをいただいた」、「なんと幸いでしょう」、「主がともにおられる」、「神にできないことは何一つない」と、マリアは告げられたのでした。 神の業は、私たちの思いにおかまいなく、はるかに超えて一方的になされます。 選ばれて用いられる人は、人間の業から神の業へと歩み始める時、断ち切らなければならない苦しみがあります。 捨てなければならない痛みがともないます。 それでも、そこには神の恵みがある、喜びがあるとマリアは悟ったのでした。 マリアは、言われたように幸いなことが実現したから賛美をしたのではありません。 もしかしたら、婚約者に離縁されるかもしれない。 ユダヤの人々に石打ちの刑によって殺されるかもしれない。 それでもマリアは、「主がおっしゃったことは必ず実現する」と信じることができました。 小さな町の身分の低い、この「はしため」にも目を留めてくださったという感謝に変えられました。 「力のある方が、わたしに偉大なことなさる」ことを知らされて、苦しみや痛みを乗り越える喜びに変えられたのです。 ですから、「わたしは主のはしためです。 お言葉通り、この身に成りますように。」と告白することができたのです。 この約束とそのための服従を、マリアは生涯を通して、十字架と復活に至るまで見届けるという大事な務めをいただいたのです。 そのために、マリアは未だ何も成し遂げられていない真っ暗闇の時に、自らを「主のはしため」と小さくして、沈黙して釈明もせず、喜びと感謝だけを賛美したのです。 



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