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「霊に教えられた言葉」   コリントの信徒への手紙一2章10~16節

2014-08-24

 なぜ、私たちは方向転換して、「イエスは主である」と信仰告白をすることができるようになったのでしょうか。 今もって不思議でなりません。 しかし、そのことを「私は、霊によって知りました」、「私は、神からその霊を受けました」、「私は、それこそが神の恵みであることを知りました」と、堂々と告白しているパウロの言葉に耳を傾けたいと思います。 
 パウロは、信仰には成長があると言います。 本当でしょうか。 何をもって成長した信仰と言うのでしょうか。 信仰生活の長さでしょうか。 お祈りの上手さでしょうか。 パウロの表現によりますと、信仰に成熟した人たちは「隠されていた、神秘としての神の知恵」を語ると言います。 それは、滅んでいくようなこの世の知恵ではない。 「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備されたものであった」と言います。 神のことは、神にしか分からない。 その神が、み子であるイエスを遣わしてご自身の姿を現わしてくださった。 今もなお、そのイエスの十字架の姿と言葉によって私たちに、その「神の知恵」を伝え続けてくださっている。 それが、パウロの言う「神の霊」です。 私たちは、この神以外に知ることのなかった秘密を知らされた者となったのです。 
 パウロはこのことに加えて、もうひとつ大事なことを言っています。 信仰に成長している人とは、「キリスト・イエスに捕らえられている」人だと言います。 私たちがイエスを追い求めているというより、イエスに追い求められ捕らわれている人だと言います。 私たちが気づいていようがいまいが、イエスが私たちをここに至るまで離さなかったということです。 私たちが知識や経験によって勝ち取った知恵ではありません。 突然、イエスのもとから降って来たような、「隠されていた、それと同時に周到に準備されていた神の知恵」です。 パウロはそのことを、「神からの霊を受けました」と表現しています。 私たちはかつて、そのことに気がつきませんでした。 なぜなら、それが愚かなことに見えたからです。 その世の知識や経験からは、到底、理解することができなかったからです。 この「愚かなこと」、「理解できないこと」を神の霊として受け取ることができるようになったのは、「霊に教えられた言葉」によって、私たちのもとへそれが届けられたからです。 聖書は、神の霊によって記されたものです。 霊に動かされた人たちが「霊に教えられた言葉」を語ったのです。 その言葉を、霊に動かされて人々が持ち運んでいるのです。 私たちは、その恵みに与かっています。 
 私たちが神を知るということは、神の恵みを知ることである。 霊によって神を知るということは、私たちが神を見出したのではない。 私たちこそ、神によって知られているということを知る、神に捕らえられた者だとパウロは言います。 十字架の言葉が愚かなことではなかった。 救われるはずのなかった私の「救い」のためであった。 理解することができないとばかにしていたイエスの十字架が、私の「赦し」のためであった。 ただ神の憐れみによって、この「隠されていた神の知恵」を心から神の恵みであると、この「霊に教えられた言葉」によって悟ることができるようになった。 神が、どんなに私たちを知っていてくださって離さなかったかということに気づかされ、喜びの涙が溢れ出たのではないでしょうか。 私たちの側に、この神の知恵を受け入れる資格や理由を見出すことはできません。 ですから、パウロは「神からの恵みとして与えられた」と言っているのです。



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