「イエスの祈り」 ルカによる福音書22章31~34節
時は、過越しの祭りという大きな祭りでにぎわい始めています。 場所は、イエスが前もって準備しておいた、愛する弟子たちと食事をともにした地上での「最後の晩餐」でした。 イエスは、シモン・ペトロにその席で呼びかけます。 「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」と言います。 いったい、何のことでしょうか。 イエスはペトロに語りかける前に、同じこの席で「わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。 わたしは定められたとおり去って行くが、わたしを裏切る者は不幸だ。」と言われていたのでした。 イエスは、サタンの試みの中にあったユダの心の動きをご存じであったのでしょう。 イエスは最後まで、ご自身を裏切ろうとしているこのユダに対して、神のもとから離れて行くことから立ち帰って、悔い改めることを心から望んでおられたのではないか。 ユダのはかりごとによって捕らえられようとしている、まさにこの地上の最後の時に、その本人に「わたしを裏切る者がいる」と呼びかけられたのではないか。 なぜなら、このユダのためにも、イエスはこれから十字架のうえに自ら進み出て、父なる神の怒りと悲しみの裁き、そしてその赦しと救いに身を委ねようとされたからです。 イエスの言われる「わたしを裏切る者」とは、罪を犯そうとしている者のことではない。 イエスがこれから身に受けようとする十字架の苦しみによって、与えようとされておられる「神の赦し」を拒む者である。 その赦しを拒む者は、私の悲しみであり、父なる神の痛みであると言っておられるのです。 残念ながら、ユダはこのイエスの招きを拒み、神を捨て、変えようとしない自分に頼って生きる道を選択したのです。 イエスの「赦し」の招きに背を向けたのでした。
しかし、イエスは「わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った」とペトロに言われたのでした。 イエスと「ご一緒なら死んでもよい」とまで覚悟していた。 仕事も故郷も何もかも捨ててイエスに従って来たペトロでした。 他の弟子たちにはない勇敢さをもって、大祭司の屋敷の中庭にまで入って行って、なおもイエスに期待していた。 しかし、そこで見たイエスの姿は、人々に侮辱される惨めな姿でした。 いよいよペトロの期待が絶望に変わったその時に、「イエスに一緒にいた」と人々に告げられ、三度も「わたしはあの人を知らない」と、すべてを捨てて従ったそのイエスを、ペトロが裏切ったのです。 ペトロの挫折です。 「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」とおっしゃったイエスの言葉を思い出して、ペトロは激しく泣いたとあります。
イエスは、このペトロの犯すであろう挫折の姿を含めて、「わたしは、あなたのために信仰が無くならないように祈った」と言われたのです。 ペトロあなたには信仰があると言っておられる。 この世には、サタンの試みが必ずあり、それに動かされ失望し挫折する時がある。 しかし、この挫折こそが、十字架という「神の赦し」のもとにペトロを立ち帰らせる。 ですから、イエスは「あなたの信仰が無くならないように、わたしは祈った」、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたのです。 イエスの祈りに支えられていた。 そこには「神の赦し」があった。 その喜びと驚きと感謝を、ペトロは十字架の後にイエスのもとへ立ち帰って見出したのです。 私たちの本当の罪は、過ちを犯したことではありません。 いつまでも自分を捨てきれず、悔い改めないで、イエスの「赦し」の招きと憐れみを拒むことです。 このペトロと同じ「赦しの喜び」、「救いの喜び」がある限り、必ず、福音は伝わっていきます。 主イエスは、隣人を力づけるために、私たちを赦し、救ってくださったのです。