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「深く息をついたみことば」   マルコによる福音書7章31~37節

2014-06-15

 ひとりの「耳が聞こえず舌の回らない人」が、人々に連れて来られました。 自分からイエスに癒しを求めたのではありません。 連れて来られただけの人、イエスの前に立ちながらも応えることすらできなかった人でした。「耳が聞こえず舌の回らない人」以上の、心を閉ざした人でした。 そのような人を、イエスは大勢の群衆から引き離して連れ出しておられる。 その人とだけ向き合う場をつくっておられる。 「聞こえない耳」を指で差し入れるように触れておられる。 「言葉が語れない舌」にも触れておられる。 その人の弱い所に、イエスは向き合って触れてくださるのです。 
 イエスの救いの業は連れ出して、先ず「耳を開ける」ことから始まりました。 実に、信仰は聞くことから始まると言われる通りです。 イエスは、指に力を入れて、耳をくり抜くようにして、ご自身の声を聞かせようとされたのです。 そして、舌を癒し、耳から聞いたそのみことばに応えて語らせようとされたのです。 
 問題は、その次です。 イエスは、「天を仰いで深く息をついた」とあります。 天を仰ぐとは、父なる神への祈りです。 神との交わりを失い、人との交わりも失い、ただ人任せにあるひとりの人格に向き合うために、イエスは天を仰いで深く息をつく「うめきのような祈り」をされたのでした。 父なる神のもとから降る神の力、神の霊を願い求めたのです。 イエスは、代わって天を仰いでうめかれた。 祈るすべさえ知らない、応えることすらできないこの人に代わって、執り成しの祈りをうめいてささげてくださったのです。 ついに、「エッファタ、(アラム語で)開け」というみことばが神の息によって、神の力によって語られたのです。 すると、たちまち「耳が聞こえず舌の回らなかった人」の耳が開き、舌のもつれが解けたと言うのです。 
 イエスは、「耳の聞こえない人が聞こえるようになり、口の利けない人が話せるようになる」救いの業を、お示しになりました。 この出来事に人々は、神の力が注がれるこのお方がおられるなら、これからも「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」と、心が打たれたのです。 だから、「すべて、すばらしい」と驚いたのです。 たったひとりの人に起きたこと、起こり続けることが周りの人々にも及んでいく。 旧約聖書のイザヤが、「その時、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。 口の利けなかった人が喜び歌う。 荒れ野に水が湧き出で、荒れ野に川が流れる。」と預言した通りです。 イエスは、この預言を成し遂げるために、私たちのところに遣わされました。 一人の人をイエスの救いの業に満たし、その周りにも新しい命の泉を湧かせる。 そのために、「耳が聞こえず舌の回らない人」が用いられたのです。 この人は、他でもない私たちの姿です。 聞くことも話すこともできるように回復される道は、イエスが天を仰いで、深くうめいて息をつかれて願い求められた「神の霊」による他はありません。 このイエス・キリストの執り成しの祈りにすがる以外に方法はありません。 ですから、私たちはイエス・キリストのみ名によって、神の霊の導きを願い求めながら信仰生活を送っています。 今朝の交読文にありました「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ見ること」、そして、「復活の朝を主の家で迎えること」。 これを生涯の祈りとして、イエス・キリストに結ばれて歩む、この恵みのうちを私たちは、今、歩んでいます。



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