「破綻のうえに築かれる教会」 ヨハネによる福音書11章1~16節
エルサレムから少し離れたところに、イエスが心を赦したひとつの家族がいました。 そこには、姉妹のマルタとマリア、兄弟のラザロという家族を挙げての安らぎの交わりがありました。 「イエスは、マルタとマリアとラザロを愛しておられた」と記されています。 そのラザロが、死に瀕するような病いに倒れていると言います。 その二人の姉妹が、エルサレムから遠いヨルダン川の向こう側に留まっておられるイエスに行動を起こします。 「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と人をやって告げます。 この訴えをどのように聴かれるでしょうか。 病いを治してくださいという訴えでしょうか、不安と絶望のなかにあるこの心の状態を聞いてもらいたいという訴えでしょうか、いや、慕い信頼するイエスの胸に飛び込んで一緒にいたいという訴えでしょうか。 イエスは、一度もラザロの病気の状態を見ておらず、分かってもいません。 そうであるのに、「この病気は死で終わるものではない。 神の栄光のためである。」と使いの者に答えたのです。 イエスは、この兄弟姉妹との交わりが、このラザロの「病いや死」によって妨げられるものではないと語っただけであります。 イエスは、人の感情だけでは動きません。 いてもたってもいられないなかで、神のみこころを求めて、そこに二日間留まって動こうとはしなかったのです。 神が働かれるのは、私たちが熱心に祈ったから、何かを成し遂げたからではありません。 父なる神が、完全にラザロの家庭を捉えて働いてくださることをイエスは待っておられたのです。
ついに、イエスは二日間待って、弟子たちに言いました。 「もう一度、ユダヤに行こう」 弟子たちは驚きます。 「ついこの間も、ユダヤ人たちがあなたを石で打ち殺そうとしたところではありませんか」 弟子のトマスが「わたしたちもそこへ行って、一緒に死のうではないか」と言うぐらいに身の危険を覚悟しなければならなかったのです。 イエスは、これから十字架の道に向うエルサレムに入る直前の、最後のしるしを病人の「癒し」ではなく、病人の「死からのよみがえり」としなければならなかったのです。 それが、「ラザロは死んだのだ。 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたが信じるようになるためである」、「この病気は死で終わるものではない。 神の栄光のためである。」と言われたことなのです。 イエスがラザロのもとに到着したのは、墓に葬られて既に四日後のことでした。 イエスは、激しく泣いて、石でふさがれていた墓の前に立って「その石を取りのけなさい」と言われたのです。 イエスは、生きる者の世界と死んだ者の世界を分ける、墓の石を取りのけなさいと言います。 どうしようもない絶望の中にある私たちに、イエスは石を取りのけなさいと呼びかけるお方です。 私たちは、このよみがえられた主イエスを信じて、墓の石を取りのける者です。 私たちの肉体の死は、決して終わりではありません。 この終わりに向って歩んでいるのではありません。 新しい命への途上に生きています。 この人間の絶望、破綻のうえによみがえりが起こされた者の集まりが教会です。 新しく命に生かされた者と、イエスに従って墓の石を取りのけた者と、迎え入れてくださった主イエスと一緒に喜び分かち合うのが教会です。