秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「安息日の主が招く礼拝」   マタイによる福音書12章1~8節  

2014-03-16

 私たちのキリスト教の生い立ちは、イエスの誕生であり、イエスのこの地上での姿であり、十字架にかけられ死んで葬られ、よみがえり天に昇られたという歴史上の事実によります。 私たちのところに聖霊が降ってくるという出来事を経て、復活されたイエスが主であると信じる信仰が確かなものとなったことによります。 この神が一方的に為された事柄をからだで感じ取った私たちが、それに応えて礼拝するという行いが引き起こされたのです。 「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」「毎日、ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」。 これが、キリスト教の最初のころの礼拝の姿です。 イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。」「あなたがたは安らぎを得られる」と、真の安らぎを与えると約束されました。 神がご自分の仕事を離れて休息なさって、祝福し、聖別された筈の安息日が、今や、安息日の細かい規則を守るための重荷となってしまっている。 安息日は人のためにある。 「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。」 祭司たちが神殿で仕えている筈の安息日の主は、私であると言われたのです。 父なる神が、その創造の業のなかで、祝福し、聖別した安息日に真の安らぎを与えようとして私を遣わしたのだと言っておられるのです。 そして、イエスは、「わたしがもとめているのは憐れみであって、いけにえではない」 あわれみを犠牲にした形だけのいけにえではないとイエスは主張されたのです。 まさに、最初のころの教会が、イエス・キリストの復活をからだで味わった後に、この疲れと重荷から解放される真の喜びをもって、主のよみがえりの日曜日の礼拝を守ったのです。 私たちの礼拝は、このすさまじい闘いの中から勝ち取られて来た、解放の喜びの礼拝であったのです。 神が、イエスを用いて私たちを招いてくださったものであったのです。 安息日は、イエスが真の安らぎを私たちに与えようとされた日です。 人が安息日のためにあるのではない。 安息日の主であるイエス・キリストの憐れみのみことばを聞いて、その憐れみにすがって礼拝するためであります。 仕事の手を休め、神の喜びにあずかる礼拝の日です。 イザヤ書に「安息日に歩き回ることをやめ、わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする」とあります。 真の安らぎを与えようとして招いておられる主イエスを礼拝する。 そのとき、主は必ず、その日を「主を喜びとする喜びの日」としてくださいます。 招いておられる安息日の主をこそ、形に囚われないで一緒に仰ぎ、賛美し、喜びましょう。



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