「あなたの足を洗わないなら」 ヨハネによる福音書13章1~11節
イエス様は、ご自身の人間としての地上の生涯を閉じられる時のことを「この世から父のもとへ移るご自分の時」と表現されました。 そして、その最後の時に「父なる神がすべてのことをご自分の手にゆだねられたこと」を悟った。 「ご自分が父なる神のもとから来て、神のもとへ帰ろうとしていること」を悟ったと言われました。 一切の救いと裁きの力を父なる神から与えられ、いよいよ父のもとへ戻って行くのだと悟って、これから向わなければならない、いや自ら進んで十字架の道を歩まれたのでした。 そのような時に、イエスの心は弟子たちのうえにあったというのです。 「世にある弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあります。 心があっただけでなく、弟子たちにひとつの振る舞いの姿を別れのメッセージとして残されたのです。 その姿とは、「食事の席から立ち上がって、上着を脱いで、手ぬぐいを取って腰にまとわれた」姿、そして「たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふきはじめられた」姿でした。 この当時の「足を洗う」とは、奴隷の仕事です。 ペトロは、このイエスの姿を人間の道徳としか見つめることができなかった。 私の願う偉大な先生がそのような仕事をするべきではない。 あるいは、自分がイエスの足を洗うべきであると思ったのかもしれない。 しかし、イエスは、この姿がこれから迎えようとする十字架の死という別れに結びついている。 父なる神のもとに帰るという復活の事実と深く結びついている。 もし、私があなたがた弟子たちの「足を洗わないなら、わたしと何のかかわりもないことになる」と言われたのです。 上着を脱いで、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふきはじめられたイエスの姿が示した愛は、イエスの方からかかわろうとした愛でした。 この弟子たちの中には、この食事の直後にイエスを売り渡して裏切ったイスカリオテのユダもいたのです。 イエスはその足をも洗う、すべてをご存じで赦して最後まで諦めないで、「かがんで、本当に汚れた足を洗ってぬぐわれた」愛であったのです。 イエスは、ペトロに言います。 「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」愛であると言います。 私たちの裏切りも、弱さもすべてご存じであった。 もうすでに、すべてをお赦しになっていた。 だから、あなたがたの最も汚れているところを、ひざまずいて、かがみこんで洗わなければならないのだと言っておられるのです。 イエスは、弟子たちの足を洗い終わると、「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われました。 私たちの生涯もまた、最後まで、イエスに招かれているすべての人たちと食事をともにする地上の交わりの中にある者です。 大事なことは、諦めないで最後まで神のもとに召されるまで、自分にしかできないことをもって、イエスに招かれている人たちを愛し抜く。 その別れのメッセージを、自分の姿に刻み込んでいくことではないでしょうか。 私たちにも、そのメッセージを語る「自分の時」が与えられています。 主イエスに、一刻も早く罪にまみれた自分を差し出してぬぐっていただく。 その洗っていただいたイエスの愛が刻まれた姿をもって、互いに足を洗い合う交わりに導かれたいと願います。