牧師館より 2014. 2. 2
2014-02-02
# 園長として、一年間、子どもたちを見続けて参りました。 子どもたちがお休みの時の幼稚園ほど、さびしいものはありません。 子どもたちの歓声と笑顔が運ばれてくる喜びは、何ものにも替えられません。 第三期もあと一カ月ほどとなり、30名の園児たちが巣立って行こうとしています。 これだけ自信をもった姿で、その日を迎えようとしている成長した子供たちを見ることは喜ばしくもあり、少し寂しさも感じるのです。 話しかけることすらできなかった子どもが、表情豊かに語りかける。 少し我慢をして、聞くこと、お友達に合わせることを覚える。 たとえ小さくとも、人格と人格のぶつかり合いの中から、何を感じ取っている。 幼くして、新しく生まれ変わっていっているようにも感じるのです。
しかし、一番の喜びは、その幼い子どもたちを取り巻く、目に見えない親子に代表される関わりや触れ合いです。 それぞれ違った環境の中にも、その関わり合いの中に置かれ育まれている。 人が関わり続けることの大切さを、心から知らされました。 だれかに知られている。 見つめられている。 愛されている。 気に留められている。 人は年齢に関係なく、このことによって力を与えられ、生かされている。 その体験を、この一年の間に知らされたことでした。 神は、もれなくこのひとりひとりの魂に向けて、探して、語りかけて、招いてくださっている。 この神との交わりの現実こそが、神の国の到来であることを知ったことでした。
(牧師 村上悦二)#
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