「罪人を招くために」 マタイによる福音書 9章9~13節
アダムとエバのお話をご存じでしょうか。 最初の人間であるアダムが、食べてはならないと神に言い渡されていた木の実を、蛇に騙されて食べてしまった。 そこから人間に罪が入り込んでしまった。 遠い大昔の神話であるとお思いでしょうか。 聖書は、イエス・キリストを証言しています。 その時々の信仰者によって、霊に導かれて信仰を書き現わしてものです。 このお話には、神を避けて、神のもとから離れるという人間の姿が語られています。 確かに、神に命じられた約束を守らなかったことが、罪の一断面を表していることは分かります。 しかし、人間が犯した罪は何であったのでしょうか。 善と悪の木を食べることに欲望をもったこと、自分が神と同じように全知全能になることができるのではないかと思ったことではないでしょうか。 神は、この私たちを「どこにいるのか」と探してくださっています。 恐ろしくなって身を木の間に隠して、「蛇が騙したので」と言い訳をしている私たちを憐れんでくださっています。 神は、すべての木から取って食べよと祝福してくださった。 探して、赦そうとされた。 その神のご真実の姿が、私たちに与えられた主イエス・キリストです。
イエスの時代の食事は、主なる神から与えられた食べ物を、神に感謝しながら賛美と共に家族を挙げて食べる、神に対する礼拝でした。 そのような礼拝に、律法を守ることのできない者と一緒にするイエスが、厳格なユダヤ人には赦せなかったのです。「なぜ」と憤りをもって迫る彼らに、イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。 わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われたのです。 このイエスに、徴税人マタイはなぜ立ち上がって従うことができたのでしょうか。 イエスご自身が、人々から罪人に数え上げられるところに身を置いたから。 罪人となじられている人々とともに食事、礼拝をささげられたから。 この罪人たちを代表して、自ら罪に定められようとされたからではないでしょうか。 ですから、イエスの食事に、大勢の徴税人や罪人が集まって来たのです。 イエスは、この罪人と定められるところ、神の裁きがあるところ、神との交わりが回復されるところ、そこに従って来なさいと言われたのです。 神の裁きと救い、赦しが実現するところこそ、主イエス・キリストの十字架のもとです。 そこに立ちなさいと言われたのです。 「わたしが来たのは、罪人を招くためで」あったのです。 罪人に定められた彼らこそ、真の食事、真の礼拝に招かれたのです。 自分の貧しさを悲しむ者、自分の醜さを嘆く者、自分の弱さにうちひしがれる者のもとに、イエスは近寄って来て、「わたしが来たのは、罪人を招くためある」と語ってくださるのです。 この真の交わり、真の食事の席が私たちには用意されているのです。