「私の証し」
2014-01-19
# 私は、教会に入ってから、祈りの機会をもつようになりました。 それまでは声に出して「祈る」ということをしたことはありませんでした。 なぜなら、自分のために祈るということは、初めのうちはわざとらしく感じたし、照れ臭くてどうにもなりませんでした。 ある日、誰かが、教会の約束の中に、「個人的な祈りと、家族の礼拝に努め・・・」という言葉があることを教えてくれました。 そこで、自分にある「不安」を口に出してみることにしたのです。 持病、家族、仕事など、内容はその時その時で様々です。 衝動買
いしてしまって後悔したことや、飲み過ぎてしまい体調を崩してしまったことなど、神様に謝るような感じで、懺悔のような内容になることもありました。 声に出すことで自分の不安を、自分の弱さを自覚することができます。 「まあ、しょうがないな。」と切り
替えることができるのです。 「祈り」として口に出すことが、自分の持つ弱さや不安から逃げずに向かうことができるような気がします。 それが、どう対応したら良いのか考える機会になっていると思います。 #
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