「まことの闇とまことの光」 ヨハネによる福音書 1章6~18節
ヨハネの福音書には、マリアとヨセフが登場するクリスマスの風景、羊飼いの姿も、東方の学者たちの姿もありません。 ヨハネは、イエスがすでに成長し、公に活動し始めた時からしか語っていないのです。 ヨハネの福音書は、冒頭で「初めに言があった。 言は神と共にあった。 言は神であった。 万物は言によって成った。 言の内に命があった。 命は人を照らす光であった。」と言います。 ヨハネは先ず、神は語りかける言葉をもつお方である。 この世のすべてのものは、この神の語られる言葉によってつくられた。 人は、この神の言葉に応える人格をもつ者としてつくられたと語ります。 このことは、天地創造の神の初めの業として語られ、言葉が初めからすでにあったものであることが分かります。 それ以来、神は、戒めを通して、また預言者を通してご自身の御心をこの言葉をもって語りかけられました。 それでも、神の「言」を聞こうとしないこの世に、ついに、たったひとりの神の子であるイエスが遣わされました。 この遣わされたイエスこそ、神の語りかける「言」です。
ヨハネは、「言は肉体となった」、「言は、わたしたちの間に宿られた」、「わたしたちはその栄光を見た」と言います。 この「言」である神が、私たちと同じはかない「からだ」をもってくださって、悲しんで、苦しんで、死んでくださった。 そのからだをもって歩んだ生涯を、私たちが見ることができるようになった。 この「からだ」をもった神が私たちの間に宿られたのが、イエスのご誕生である。 「神が共に住み、神は自ら人とともにいてその神となられた」という神の国の先取りであると言っているのです。
ところが、私たちはこの神の「言」を聞こうとしません。 自分たちの力によって、何かしらの光を得ようと繰り返します。 人を赦したい、人を愛したい、平和をつくりたい、すべて分かっている。 でも私たちの現実は、人を殺してはいないけれど、人を傷つけ憎んでいる。 よくないことだと分かっていても、声を挙げる力も勇気もない。 平和を願っているけれど、自分の平和だけを願い、逆に平和を壊している。 この連続です。 自分に執着してささやかに生きていくのが精いっぱいです。 しかし、聖書は、「光は暗闇の中で輝いている。 暗闇は光を理解しなかった。」と、私たちのこの現実を表現します。 そうです。 まことの光は、この真っ暗闇の中に輝いています。 争いや、恐れや、不安のなかでは闇に覆われ、自分にしがみつく、自分のはかない光を頼りにするしか他にない。 しかし、そのすぐ消えてしまうような光すらもつことができないような八方ふさがりの時に、私たちは出会います。 暗闇にすっかり覆われてしまっているそこにこそ、「まことの光」が見えてくる。 自分のはかない光を捨てて、暗闇に輝いている「まことの光」に立ち帰ることができる。 神がからだをもって見える光として降りて来て、その道を開いてくださったのがクリスマスです。 私たちは、「まことの闇」の中に「まことの光」を見ることができるのです。