「約束の実を結ぶ」 ヨハネによる福音書15章1~10節
イエスは、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 あなたがたはその枝である。」と言います。 枝は、木の幹につながっていなければ存在することさえできないのに、イエスは、枝であるあなたがたは「わたしにつながっていなさい」と敢えて言います。 今、揺れ動いている愛する弟子たちに対して語られた、イエスの渾身の譬えなのです。 愛する弟子たちは、十字架の後、これからイエスを見失うことになる。 その弟子たちが信仰生活を続けていくために、イエスご自身を通して父なる神につながるようにと渾身の愛を込めて励ましたイエスの譬えなのです。
イエスは、「わたしにつながっているなら、実を結ぶ」と言います。 枝に向って「実を結べ」とは言っておられないのです。 枝である私たちが、イエスにつながっていれば、「あなたがたは、豊かに実を結ぶようになる」と約束してくださっているのです。 イエスのうちに留まり続けるならば、そのイエスがそのみことばによって私たちの内に生きて働いてくださって実をもたらしてくださる。 その約束の中にあなたがたは生かされているのだと、イエスは語るのです。
この「ぶどうの木とその枝」のつながりを眺めておられる農夫の姿を覚えます。 イエスは、あなたがたはすでに実を結ぶという約束のなかにある枝である。 農夫は、その枝を時として手入れをなさると言います。 もし、木の幹につながっていながら実を結ぼうとしないなら、もし、木の幹につながっている枝が自分の思い通りの実をつけようとしているなら、農夫は手入れをなさるのです。 根元から送られてくる父なる神の命に根付いた豊かな実に、結び変えてくださるのです。 私たちは、その約束の実を結ぶために、選ばれて召された枝なのです。 感謝すべきことに、イエスは「わたしもあなたがたにつながっている」、「わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言ってくれています。 イエスは、私たちという無数の枝を持っていてくださるのです。 イエスは、そのすべての枝の集まりのかしらなのです。 この枝の集まりは、イエスのみことばによってひとつにつながっているのです。 イエスは、この小さな一つの枝もまた「わたしの一部である」と言ってくださっています。 イエスははっきり言われました。 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」 これが、地上にある「まことのぶどうの木」の姿です。 私たちすべての枝を包み込んで、ひとつの体にしてくださっている「まことのぶどうの木」なのです。 その「まことのぶどうの木」のもとに集められた新しい群れに、イエスは「望むものを願い求めなさい」と、祈りを求めておられます。 祈り求めれば「わたしの話した言葉によって」実を結ぶことになると言われているのです。 そのことを私たちは、信じているでしょうか。