「キリストとの結びつき」 ヨハネによる福音書16章4b~15節
イエスの十字架の死によってイエスを失ってしまった弟子たちが、ひとつの部屋に集まっています。 イエスが天に昇られる別れの際に語ってくださった言葉にすがるように、弟子たちはひたすら祈っています。 その弟子たちに、イエスの約束の言葉通りに聖霊が降った日が、今日のペンテコステです。 しかし、イエスが地上の生活をしておられた時に、「天の父は求める者に聖霊を与えて下さる」、「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせて下さる」と約束されていました。 しかし、弟子たちは目の前にイエスの姿がいつもあったから、また、尋ねればいつでも応えて下さるイエスが一緒にいてくださったから、気にとめていませんでした。 イエスは、「今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている」と、弟子たちに直に別れを告げます。 告げられた弟子たちは、不意に訪れた悲しい別れの知らせに、弟子たちはこれからどうなるのか考えることもできなくなってしまった。 しかし、イエスは、「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」と言います。 それは、今、あなたがたは理解することができないが、すべてが分かるようになるためである。 もっと大きな業を、あなたがたが行うようになるためであると言います。 「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである」、「わたしが父のもとに行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」ことになると、イエスは言ってくださっているのです。 このイエスの別れは、単なる旅立ちではありません。 十字架の死と復活によって果たされた「神の愛」、私たちの醜さと弱さをすべて担ってくださった「十字架の愛」を経て、初めて成し遂げられた「別れ」です。 この救いの出来事を通して、別れの悲しみを越えて十字架の愛と慰めが私たちに注がれているのです。 イエスが去って行かなければ、与えられないものです。 だから、「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」と言われたのです。 イエスがいなくなるのではありません。 イエスの言われる「今」は、イエスとの「新しい愛の結びつきの始まり」なのです。 離れる、別れることによって、イエスとの「新しい愛の結びつき」の中に私たちが生かされていく。 別れの悲しみや苦しみを越えさせるものは、このイエスにある「結びつき」以外にはないのです。 イエスの地上での姿やイエスの肉声で語られたみことばだけでは、分からなかった。 その弟子たちが、「イエスの十字架の死と復活」、そして「イエスとの悲しい別れ」を通して、イエスのもっておられるものを語る弁護者(聖霊)が降って、すべてが分かるようになった。 イエスが語られたみことばを思い起こすようになったのです。 私たちは、この聖霊が働くように願い求めることです。 神の恵みの支配はすでに始まっているのです。