「途中で 早く 和解しなさい」マタイによる福音書 5章21~26節 エフェソの信徒への手紙2章14~18節
たった一人で神の前に立つことを覚悟して、自らの血と体をささげてくださった主イエス。 神との関係がまったく断ち切れていた私たちを、十字架によってふたたび神と結びつけてくださった主イエス。 その神との一方的な仲直りをしてくださった、神との和解をもたらしてくださった主イエスが、隣人との仲直りを求めておられます。 イエスは、だれにでも分かる「あなたは殺してはならない」という戒めを持ち出して語られます。 この戒めには、前文がちゃんとついています。 「わたしがあなたを導き出した神である。」 だから、そのようなことをあなたがするはずがないと断言されているのです。 私たちには、導き出され救われた喜びが先にある。 その恵みのうえに私たちは立っている。 このような神との関係は、また隣人との間の関係においても切っても切れない関係にあると、イエスはみもとに集められた弟子たちに迫ります。 「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て供え物を献げなさい」と言います。 そことは、神のみ前に立って、礼拝をささげるところです。 赦されて、救い出されて、神と和解させていただくところです。 しかし、それだけではない。 神から与えられた一方的な仲直りは、必ず、兄弟との仲直りに向かって行く。 神から与えられた平和は、兄弟との平和を造り出して行くと、イエスは言っているのです。 なぜなら、そこには、真の供え物としてイエスがすでに献げられている。 真の祭司として、イエスが執り成しの祈りをささげてくださっている。 その場所こそ、真の神殿、真の礼拝の場なのです。 神の平和、神との和解、そして兄弟との和解が実現されるところが、神のみ前に立つところです。 聖書に書かれています。 「キリストは、私たちの平和であります。」 「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・双方を御自分において、一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、・・・敵意を滅ぼされました。」 「このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」 イエスを通して、父よと呼ぶ時にはじめて、私たちは兄弟姉妹として交わることができるのです。 誰ひとり、神の前に立つ資格のない者です。 私たちの間の仲直りは、神のみ前にもっていかなければ実現することができません。 私たちは、その神のみ前に立つ「礼拝」をささげることを大切にしたい。 そして、イエス・キリストの十字架のみもとで、「赦され合いたい」と願います。