秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「その時を知らないのだから」 マタイによる福音書25章1~13節 

2021-09-12

 イエスは、「心を騒がせるな。 神を信じなさい。 わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。 こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ14:1-3)と、今は姿が見えなくなるが、必ず戻ってきて弟子たちを迎えると約束されました。 「その日、その時は誰も知らない。 ただ父だけがご存じである。 だから目を覚ましていなさい。」と、イエスは「終わりの日」、救いが完成される日のことを「十人のおとめ」のたとえをもって語るのです。 
ユダヤの婚礼は、花婿が花嫁を迎えに行き、花嫁を伴って婚宴が開かれるところに連れて行きます。 花嫁の家では、介添え人の乙女たちが手にともし火を持って待機します。 花婿が訪れると、ともし火をかざして婚宴の席にまで花嫁を導いて行きます。 イエスはご自身を「花婿」によく譬えられました。 神の民の群れはその「花嫁」に譬えられます。 この「花婿」の到着こそ、イエスが再び来られる「終わりの日」、「救いの時」を譬えているのでしょう。 婚宴の席に参加する乙女たちこそ、神の民の群れを示すのでしょう。 その乙女たちは、「花婿」を待ちわびて「ともし火」を用意していた。 ところが、「花婿が来るのが遅れたので、眠気がさして眠り込んでしまった。」と言います。 マタイの福音書が記されたのは、エルサレム神殿が崩壊した後のことでした。 イスラエルの人々にとって、この世の終わりと思わされる出来事が起こってしまった。 イエスは約束通り、自分たちを迎え入れるために再びやってくると思っていた。 ところが、約束されたイエスは現れることはなかった。 期待を裏切られて、疑いや不安の中に漂う、失望に陥っている人々の姿こそ、この「眠気がさして眠り込んでしまった」乙女たちの姿ではなかったでしょうか。 イエスはこの乙女たちに、「賢い乙女」と「愚かな乙女」がいたと言うのです。 その違いは、「壺」に「油」を入れて用意して待っていたかどうかだけです。 「賢い乙女」は用意していたので、突然の出来事に間に合わせることができた。 「愚かな乙女」は、「ともし火が消えそうです。 油を分けてください。」と願い出ますが、「分けてあげるほどはありません。」と薄情にも断られます。 なぜでしょうか。 イエスはご自身が十字架の死に向き合って、ご自身の「終わりの日」を見つめて、それが自分のために父なる神から与えられたものであると確信して受け取っていったように、「人から分け与えられて、融通してもらうようなものではない。 神の呼びかけに耳を澄ませて聴いて、受け取って、従ってみようとするところに、神ご自身より分け与えられるものである。」と、「油」の本質を譬えをもって語っておられるのです。 どちらの乙女に該当するのかと示して、「終わりの日」を迎えるようにとイエスは迫っておられるのでしょうか。 イエスは誰よりも、人間の死が肉体の死を超えて、神から捨てられるという「永遠の滅び」、本当の絶望と悲しみに生きてくださったお方です。 そのお方が、「その日、その時」を憶えて、希望のうちに待ちなさい。 「目を覚ましていなさい。 油を用意していなさい。」と招いてくださっているのです。 どちらの乙女も、イエスを待ち望む心は持っていたはずです。 突然の到着に至っても、何とかしようとしたのです。 「その日、その時」は突然訪れる。 私たちの予定にはない、遅れて、突然訪れるのです。 それも、驚くような姿をとって私たちの前に現れるのです。 「その日、その時」を待つ希望をもちましょう。 もし出会うことができたのなら、その恵みを味わいましょう。 私たちの日常生活の中に現れて、招いてくださっているイエスのお姿を見つけ出しましょう。 

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「主よ、お話しください」 サムエル記上3章1~14節 

2021-09-05

 「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。」と、わざわざ書かれています。 そのころ、イスラエルの人々は神殿にささげものをし、礼拝を重ね神に仕えていた。 神殿の祭司たちもまた、定められたように神に仕えていた。 神に仕えるという形は整っていたかもしれないが、主のみ言葉に従わずめいめいが正しいと思ったことを行っていた。 祭司エリも忠実な神に仕える者で、神のみ言葉を託された選ばれた預言者でしたが、祭司であった二人の息子たちの有様はひどいものでした。 神殿にささげられた肉を自分たちのものにし、神への供え物を軽んじていた。 神殿に仕える女性たちとしてはならないことをしていた。 神を侮り軽んじていた息子たちの有様を、エリは咎めたけれどもそれを放任してしまっていた。 ついに神の声が祭司エリに届きます。 「あなたはなぜ、わたしが命じたいけにえと献げ物を神殿でないがしろにするのか。 なぜ自分の息子をわたしよりも大事にして、自分たちの私腹を肥やすのか。 わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んじる。 わたしの望みのままに事を行う忠実な祭司を立てる。」と言うのです。 聖書はそのような状態を、「主を知ろうとしなかった。 主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。」と表現しています。 少年サムエルも、祭司エリの言われた通りに神殿で忠実に仕えていたのです。 神殿で雑用と思えるようなことでさえ、懸命にサムエルは励んでいたのでしょう。 「サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。」と言います。 祭司エリから教えられた神は知っていた。 しかし、直に神の声を聞いたこともなければ、出会ったこともなかった。 むしろサムエル少年にとってみれば、祭司エリこそ神のような存在であったのではないでしょうか。 そんな少年サムエルに、わずか一夜にして神は直に呼びかけ、出会い、隠されていた神のみ心を知るまでになさるのです。 
 神は先ず、「サムエルよ」と呼びかけます。 サムエルの知る神とは、人々に礼拝をされる神であり、祭司エリより教えられる遠い存在の神でした。 三度、神に呼びかけられたけれども、自分を呼んだのはエリ先生であると勘違いしたほどでした。 むしろ、エリの存在そのものがサムエルが神を知ること、神の声を直に聞くことを妨げていたのかもしれない。 これだけのことをしていれば、祭司としての形は整えている。 誰からも咎められることはないと思い過ちを繰り返していたエリの息子たちも同じであったのでしょう。 エリはその生涯の最後に、預言者としての務めを果たすのです。 サムエルに対する三度の呼びかけが、神のものであることを悟ります。 「もし呼びかけられたら、『主よ、お話しください。 僕は聞いています。』と祈りなさい」とサムエルに命じます。 エリは、自分の息子たちのことで神の厳しい声が降るのを覚悟していたのでしょう。 四度目に、神の呼びかけがサムエルに届きます。 少年サムエルが「主を知り、直に主と出会う」瞬間でした。 命じられたように「どうぞお話しください。 僕は聞いております」と祈り、その時聞いた内容は、エリ先生が息子たちの過ちを戒め直さなかったこと、預言者としての務めを果たし得なかったこと、預言者の務めの終わりを告げられるという、サムエルにとって驚くべきものでした。 エリにとってもサムエルに伝えられることは、つらく恥ずかしいことでした。 語る苦しみもあり、聞く苦しみもあった師弟関係の間に起こされた突然の出来事でした。 サムエルは隠さず語り終え、神との初めての出会いを経験した瞬間でした。 エリは生涯の最後に、見失っていた神との直の交わりを回復した瞬間でした。 これが「お話しください」という祈りに、神が起こされる出来事でした。 神は「私の話を聞いてください」という祈りよりも、「主よ、お話しください」と祈る私たちを喜んでくださるのです。

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「主よ、来て、御覧ください」 ヨハネによる福音書11章28~37節 

2021-08-29

 マルタとマリアの二人の姉妹の「祈り」と、その兄弟ラザロの病気と死という出来事が描かれています。 イエスは、「マルタとマリアとラザロを愛しておられた」と言います。 二人の姉妹はその場にいないイエスに、人をやって病気のラザロの危機を伝え、その回復をイエスに託すのです。 その訴えにイエスは、「この病気は死で終わるものではない。 神の栄光のためである。 私たち神の子が栄光を受けるためである。」と語り、その場を二日間動くことはなかったと言います。 これから起こる出来事に、必ず父なる神のみ心が働く確信があったのでしょう。 それから時が満ちて、「わたしたちの友ラザロが眠っている。 彼を起こしに行こう。」と弟子たちに呼びかけられたのです。 イエスは時が満ちるまで、ベタニアの村はずれでじっと待っています。 マルタは、イエスが村に来られたことを聞きつけて迎えに行きます。 イエスに会うと、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と言います。 これにイエスは、「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。 このことを信じるか。」と言うのです。 このイエスの言葉を受けて、マルタはマリアにもイエスのもとに行くことを促します。 家の中にじっと座って悲しんでいたマリアは、すぐに立ち上がりイエスのもとに出かけて行きます。 イエスのおられるところに来てイエスを見るなり、マリアは足もとにひれ伏し、マルタと同じように「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と言います。 愛する兄弟ラザロが死んで、もうすでに四日が経ち、ラザロは墓に葬られていたのです。 二人の姉妹の悲しみを慰めるためにやって来ていた多くのユダヤ人たちが、マリアが急に立ち上がって家を出て行く姿を見て、てっきり墓に泣きに行くのだろうと心配して、彼女の後を追いかけてくるほどの状況でした。 
 そのような最中での二人の姉妹とイエスの再会の場面です。 泣き崩れるマリアの姿、心配してその後を追ってきた多くのユダヤ人たちが泣いているのをイエスはご覧になって、「心に憤りを覚え、興奮して涙を流された。」と言います。 この涙は、私たちと同じ肉体を背負った者がもつ感情に左右され、「心を痛め、悲しんで、動揺して」流されたものでしょう。 それと同時に、何かを決意したかのようなニュアンスを込めています。 これから迎える、父なる神に見捨てられるという悲しみとその裁きを私たちに替わって受けなければならない十字架の苦しみ、そこから新しい命へとつくり変えられていく決意を込めて涙を流されておられるのではないでしょうか。 イエスが涙を流されたのは、「どこに葬ったのか」と問うた時に「主よ、来て、御覧ください」と二人の姉妹が祈った時のことです。 二人の姉妹は、ラザロが葬られていた墓の方ではなく、イエスがおられる所に立ち上がって駆けつけたのです。 そのお姿を見て足もとにひれ伏して訴えたのです。 どうすることもできないと分かっていても、イエスの憐れみにすがろうとする二人の「祈り」は変わらなかったのです。 「助けてください。 こうしてください。」という願いではなく、「主よ、わたしのところに来てください。」 そして、「その有様をご覧になってください。」という短い祈りです。 私たちは死んだ者が入る墓ではなく、主とともに生きていくところにすかさず立ち上がって、ありのままの姿をもって出かけて行かなければならない。 「来て、ご覧ください」と訴え、祈り委ね、主イエスを受け入れるのです。 そこに、父なる神が足を踏み入れて働いてくださるのです。 イエスは、「このことを信じるか」と私たちにおっしゃっておられます。

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「多様性の中で」 ローマの信徒への手紙14章1~10節 

2021-08-22

 ローマの生まれたての「家の教会」には、多数派の異邦人キリスト者と少数派のユダヤ人キリスト者がいます。 習慣の違いからくる、あるいはモーセの律法に対する受け止め方の違いからくる些細なことで衝突が起こっていたのです。 律法の中に定められている「汚らわしいとされていた豚肉」、「血抜きしていない絞め殺した動物の肉」、これを自分たちは食してよいものなのか。 また、「異教の神殿にささげられた犠牲の肉」が市場を通して出回り、それを自分たちは食してよいものなのか。 特に少数派であったユダヤ人キリスト者たちにとって、これは重大なことであったのです。 ところが、異邦人キリスト者にとっては、そのようなことには自由であり、そこに拘るユダヤ人キリスト者たちを侮り、軽蔑したのです。 私たちの国でも、仏教や神道の慣習により、一般常識により様々なことで悩まされることがあるでしょう。 パウロは言います。 「信仰の弱い人を受け入れなさい。 その考えを批判してはなりません。 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また食べない人は食べる人を裁いてはなりません。」 その理由は、「神はこのような人をも受け入れられたからです。」と言います。 イエスは、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31-32)と、律法からもその他のものからも自由とされる喜びを語っています。 パウロもまた、「わたしには、すべてのことが許されている。 しかし、すべてのことが益になるわけではない。 わたしは何事にも支配されはしない。」(コリントⅠ6:12)と言っているように、パウロは自分自身を、律法の制約から解放されているという意味で、「信仰の強い人」として語っています。 今、私たちに与えられている自由は、十字架というキリストの犠牲と父なる神の痛みとご愛を通して与えられたものです。 従って、無制限の自由ではなく、この自由が生み出す行いには神が注がれるご愛と痛みによる制限が加えられるものです。 「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足、自分の正しさを求めるべきではない。 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならない。 食べない人は、食べる人を裁いてはならない。 お互いがお互いをつまずかせてはならない。 神のみ心に従って、各自が各自の心の確信に基づいて決めることです。」とパウロは忠告するのです。 「特定の人を重んじる人」と「すべての日を同じように考える人」の違いの場合も同じです。 どちらが正しいことなのかということではなくて、どちらの態度も認めて受け入れるようにと言います。 その理由は、私たちキリスト者は、「自分のために生きる人はなく、生きるとすれば主のために生きる。 自分のために死ぬ人はなく、死ぬとすれば主のために死ぬのです。」 なぜなら、私たちキリスト者は「神に感謝しているからです。 食べる人は主のために食べるのです。 食べない人は主のために食べないのです。 特定の日を重んじる人も、主のために重んじるのです。 生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも、生きている人にも主となられるためである。」とパウロは言います。 私たちは主の僕、召し使いです。 そうであるのにあなたがたは、「なぜ、キリストの僕である兄弟を自分の召し使いのように裁くのですか。 キリストの僕である兄弟を侮るのですか。 あなたたちは皆、キリストの僕として神の裁きの座の前に立つのです。 神の憐れみと赦しの座の前に、例外なく立ちキリストによって弁護と執り成しをいただくのです。 召し使いが立つのも、倒れるのも、主人であるイエス・キリストによる。」と、パウロは自分の実体験から語るのです。

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「神の前に生きる者」 ローマの信徒への手紙3章21~26節 

2021-08-15

 パウロは、「ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にある。 正しい者はいない。 一人もいない。 全世界が神の裁きのもとにある。」 私たち人間が神のもとを離れ、神なき世界に漂ってしまう存在となってしまった。 神のもとから離れさせようとするこの世の力に、支配されるまでになったと述べています。 「ところが今や」新しい時代に入り、「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」 聖書に預言されてきたことが今や成し遂げられたと、パウロは語っているのです。 この「律法とは関係なく」という言葉は衝撃的な発言です。 ユダヤ人たちは、懸命に律法を守ることによって、神から与えられる「神の義」に至ることができると信じていた。 それにもかかわらず、パウロは「神の義は、ユダヤ人もギリシャ人の区別もなく、律法とは関係なく、神の恵みとして注がれるものである。」と宣言したのです。 命がけの宣言です。 「ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力である福音が示された。 その福音には、初めから終わりまで信仰を通して実現される、隠されていた神の義が示された。」(1:16-17)と大胆に定義し、宣言したのです。 ユダヤ人たちは、「自分たちこそ神に選ばれた神の民である。 祝福を約束してくださっている神に礼拝をささげ、犠牲の供え物も定められたように欠かさずささげている。 信仰のしるしとして割礼の儀式を済ませている。」 この律法さえ守っていればという「心地よい勘違い」があったのです。 神のもとを離れてしまっているという私たちの罪深さを巧妙に覆い隠すものが、私たちを納得させるかのようにこの世に溢れています。 パウロの言う「神の義」とは、破れた神と人との状態を神ご自身の方から回復させようとする神の救いの働きです。 その隠された「神の義」の働きが起こされた。 私たちの罪深さのゆえに、人間の側から修復しようとしても不可能です。 裁くのは神です。 裁かれる私たちの方から主張する資格などないのです。 ですから聖書は、「神が人を義となさる。 人が義とされる。」と表現します。 「神の義」とは、私たちがただ受け身として受け取る神の働きなのです。 そして、この「神の義」は、「イエス・キリストの贖いの業を通して与えられる」と言います。 
 聖書は、この「贖い」をふたつの意味で語ります。 ひとつは、捕虜や奴隷になった者を身代金を支払って買い戻すという「解放」の意味です。 もうひとつは、罪の汚れを動物の血によって拭い清め、神との交わりを取り戻すという「贖罪」の意味です。 パウロは、「イエス・キリストが私たちのために罪を贖う供え物となってくださった。」 イエス・キリストがその命をささげてくださった十字架のうえに、神が交わりの回復、和解の場を求めておられる。 イエス・キリストの信仰の服従と、神自らの裁きの痛みをともなったご愛によって、罪深さから解放される。 罪が免れる。 この「解放」と「贖罪」が、神のもとから流れ出てくる「救いの恵み」です。 罪にまみれた世界から私たちを救い出す「神の力」、救いに至らせる「神のご愛」です。 「神の義」が示され、福音が訪れ、新しい時代が始まったとパウロは宣言するのです。 この「救い」の出来事こそ、「ご自身の義を示すためだった。 同時に、イエス・キリストを信じるすべての人を義となさるためだった。」と締めくくっています。 「神の義」を示されたのは罪と妥協しない神の正しい裁きを示すため、何としても私たちを救い出そうとされるご愛のため、神との交わりを回復するためでした。 解決しないまま、先を見通せないまま、それでも神のみ前に生きて行こうとする私たちの懸命な姿を神は喜んでくださるのです。 そこには、神のもとからしか流れ出ない「神の力、ご愛、忍耐」が注がれるのです。

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「私たちの再興のため」 ローマの信徒への手紙11章25~32節 

2021-08-08

 パウロが、ローマにいる生まれたばかりの信徒の群れに呼びかけています。 「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。」と異邦人信徒たちにたしなめるかのように言います。 「イスラエルの民はその不信仰、不従順のゆえに枝として折り取られました。 その代わりに、あなたがた異邦人が接ぎ木されました。 イスラエルの民に約束された祝福の源、その根から送り込まれてくる豊かな養分、恵みをあなたがたは受けるようになったのです。 だからと言って、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。 むしろ恐れなさい。 神の慈しみと厳しさを考えなさい。」とパウロは語るのです。 「神の選びについて言えば」、イスラエルの民は神に選ばれた、神のみ言葉を託された神の民です。 アブラハム、イサク、ヤコブの神がずっと愛している神の民であることに変わりありません。 「神の賜物と招きは取り消されることのない神の約束である。」と言うのです。 ところが、そのイスラエルの民が託されたみ言葉を守り行うことによって、自分の正しさを追い求めるようになった。 これが神の民になるための条件であると理解し、神から遣わされたイエスの語る福音の恵みを拒み、イエスを十字架に架けて殺し神の敵対者となってしまった。 まさに、放蕩息子の弟の行いをあげつらい、間違っていると自分の正しさに縛られて、父親の憐れみを理解することのできなかった兄の姿でしょう。 一方、異邦人は、かつては神を知らず、神を求めようとせず、神とは無縁のまま、神なき世界を漂い放置されていたのです。 罪も分からず、神の憐れみも知らない存在でした。 しかし今は、イスラエルの民の躓き、不従順によって、十字架の恵みが異邦人にもたらされて神の憐れみを受ける者となったのです。 まさに、したい放題のことをして、破綻してどうすることもできなくなって、自らの醜い姿を見つめさせられて、悔いて、父のもとにひざまずいて無条件の赦しと恵みによって戻ってきた放蕩息子の姿です。 パウロはその神の「秘められた計画」を、「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」と結論付けています。 神は恵みの水路をせき止められる時がある。 一旦約束された恵みをせき止めてでも、救い出そうとされる時がある。 それはすべての人が、神の憐れみと厳しさを知るためである。 神のご愛、恵みに触れるためである。 しばしの間に神の憐れみと厳しさを知らされて、再び神の民として取り戻されるためであるとパウロは言うのです。 
 イスラエルの不従順は、自分たちの不従順から再び立ち戻る自らの再興のためです。 神は救いのご計画に従って、ご自身の民を打ち砕き裁くことによって、あるいは頑なな不従順に導かれることによって救おうとされておられるのです。 注がれる神の恵み、憐れみに私たちが気づくためです。 それに触れて味わうためです。 私たちの復興、再興のためです。 私たちを愛するがゆえに、神は私たちが考えもしない出来事を通して働いてくださるのです。 私たちの行いや有様やその報いによって、救いや赦しや祝福を私たちが受けるものではありません。 神はただご自身の豊かさから、そのご愛や恵みを私たちに分け与えようと憐れんで注ぎ続けてくださっているのです。 選ばれた民はたとえ途中で、不従順に陥ったとしても諦めてはならない。 神の選びは不変です。 約束は消え去ることはありません。 一時的な恵みのせき止めを通してでも、神は救いの恵みを与えてくださろうとしているのです。 一向に神の方に向きを変えない民もまた、神はその外から恵みとご愛をどっと流し込んでくださる時があるので、諦めてはならないのです。 私たちの不従順もまた神のみ手の中にあることです。

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「希望と苦難」 ローマの信徒への手紙5章1~11節 

2021-08-01

 パウロは、「わたしたちは信仰によって義とされた。 わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得た。 今の恵みに信仰によって導き入れられた。」と言います。 「神の義」という難しい言葉は、「神のもとから私たちのところに流れてくる恵みの水路」と例えられると紹介いたしました。 そのような恵みの水路はすでに用意されている。 それを感謝して喜んで受け取るだけである。 これが「神のものとなる希望、神の栄光にあずかる希望を誇りにします」という言葉となってパウロの口からほとばしり出ているのです。 苦難や試練という出来事もまた、希望を生むとパウロは言います。 なぜなら、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからだ。 神のもとから注がれてくる恵みの水路を通ってくるものは、神の愛だ。 それを神ご自身が与えてくださる聖霊によって注いでくださっているからだ。」と言うのです。 「信仰によって、イエス・キリストによって、聖霊によって」、これらすべて神のもとから出てくるものによって、神のご愛が注がれている。 そのご愛を、苦難の中で、試練の中で、不思議な出来事の中で、わたしたちは味わうことになっている。」から、この希望はわたしたちを欺くことはない。 神のみ心に適う希望は失望に終わることがない、必ず実現される。 だから、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りにします。」と言うのです。 「誇る」という言葉は「喜ぶ」という言葉ですから、神さまが私たちにご自身の霊やご愛を分け与えてくださっているので、「希望を喜びます。 苦難をも喜びます。」と言うのです。 神が分け与えてくださる神のご愛によって、神がわたしたちの内に留まってくださるのです。 それが、神の内にわたしたちが留まることになるのです。 同じように、神が遣わしてくださったイエス・キリストを、神の子であると公に言い表し受け入れる人はだれでも、イエスを通して神を内に宿すことになる。 それが神のもとにその人が留まることになるのです。 神の力の源は神のご愛です。 
 続けてパウロはふたつのことを語ります。 ひとつは、「キリストによって神の怒りから救われた」という言葉です。 イエス・キリストの十字架の死によって、神の裁きから救い出される。 神の憐れみにより、神が用意してくださった十字架の出来事により、私たちが犯してきた過ちが赦されるということです。 もうひとつは、「キリストの死によって、神と和解させていただいた。」という言葉です。 イエス・キリストの十字架の死によって、今までとは異なる新しい命に生きるようになる。 新しく創造され、新しい生き方をこの世において始めることができるようになるということです。 キリストの十字架の死により新しくされたということは、死んで復活したキリストを内に宿してその命に生きるということ、キリストが私たちの内に宿り、生きて働いてくださるということです。 そして、「和解させていただいた今は、御子の命によって救われる。 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって神を誇りとします。」と言うのです。 神の栄光にあずかるという決して裏切らない希望を喜ぶ。 苦難や試練を喜ぶ。 そして神ご自身を喜ぶと言うのです。 なぜなら、神のご愛が私たちの心に注がれていることを味わうことになるからである。 何も分からなかった私たちに聖霊が注がれ、イエス・キリストに出会い、神のご愛が私たちの内に宿り、生きて働いてくださり、まったく新しくされるからだとパウロは言うのです。 神の力、神のご愛は、私たちの弱さの中にこそ働いてくださるのです。 このコロナ禍でも、私たちは神を喜び、賛美するのです。 神のご愛を味わうのです。 その喜びが生きる力となるのです。

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「福音の力と神の義」 ローマの信徒への手紙1章16~17節 

2021-07-25

 パウロは、「わたしは、ギリシャ人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。 それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」と、生まれて間もない小さなローマの教会の群れに向けてこの手紙を書き送っています。 「わたしは福音を恥としない」と記されています。 よい知らせと言われるこの「福音」は、喜びを伝える言葉、湧き上がる力を与える神の言葉とでも言うのでしょうか。 パウロはこれを「恥としない」と言うのです。 パウロは律法をユダヤ教の中心で学び、それを守る指導的立場にあった人です。 その定めを疎かにするイエスの教えに我慢のならなかったパウロは、信念をもってイエスの弟子たちを懸命に迫害をしたのです。 そのパウロが、よりによってその律法によって裁かれ、見せしめのために群衆に晒された十字架のイエスを、「自分たちの救い主である」と宣べ伝える者となった。 神を冒涜する者、律法によって裁かれなければならない恥ずべき者、無力で弱い者、愚かな敗北者の象徴のようなイエスが語る福音を、宣べ伝える者となったのです。 人々からは裏切者として矢面に立って、一身に非難や中傷や陰謀、鞭打ちや投獄を引き受けてきたパウロでした。 人々にとって躓きの出来事でしかなかったイエスの十字架の出来事を、「福音だ。 よい知らせだ」と語るパウロはありとあらゆる試練を受けてきたのでした。 そのパウロが「この福音を受け入れる。 拒まない。」と、「恥としない」という消極的な言葉をもって固く決意表明しているのです。 イエスもまた、「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、わたしがくる終わりの日には、わたしがその者を恥じる。」(マルコ8:38)ことになると語り、だから今、「福音」に語られている恵みを受け取るようにと促しておられたのです。 
 その理由をパウロは、「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」と端的に語ります。 「福音」は神が語りかけられるイエス・キリストを告げ知らせる、神の約束の言葉です。 その「福音」の言葉が「神の力」で、「信じる者すべて」に働いて「救い」をもたらす。 「福音」の言葉が語られて、それを受け入れるところに「神の力」が働くと言うのです。 私たちの「信仰」が、この「神の力」を引き出しているのではありません。 神がすべての人に無条件に「恵み」として、神ご自身が起こしてくださっているのです。 その神の呼びかけに聞くことから、また従ってみるところから私たちの「信仰」が始まるのです。 十字架の出来事は、今日のこの「私」に向けて、神ご自身がみ心を果たすために繰り返し語りかけてくださっている「神の力」です。 そう確信する根拠をパウロは、「福音には神の義が啓示されている。」からだ。 「初めから終わりまで信仰を通して実現される。」からだと言います。 この難しい「神の義」という言葉は、「神のもとから私たちのもとに流れてくる恵みの水路」に譬えられます。 流れのほとりに植えられた木のように、神の恵みの水によって潤い、養い、実がなる「恵みの水路」が切り開かれた事実が目に見えるようになった。 その恵みを受け取るだけ、それに応えるだけで、最初から最後まで「神の力」が実現されていく。 「信仰」は、私たちの中に働かれる「神の力」の働きです。 神から注がれる賜物です。 からし種一粒のような小さな信仰であったとしても、神のものとして自ら出来事を起こし、新しく働き始めるのです。 ペトロもパウロも自分が犯した過ちを決して恥てはいない。 むしろ、その弱さや貧しさに「神の力」が働いてくださることを体験しているからです。 「神のもとから流れてくる恵みの水路」が切り開かれている、この事実の確かさだけに信頼して歩むところに「神の力」が働き、「救い」の出来事が起こされると確信しているのです。

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「信じること」 ローマの信徒への手紙10章14~21節 

2021-07-18

 パウロは、「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。 聞いたことのない方をどうして信じられよう。 また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」と言います。 パウロが語る「呼び求める」、「信じる」、「聞く」、「宣べ伝える」、「遣わされる」という言葉の順番は、救われる側からみればまったく逆のように感じます。 私たちが救われるためには、私たちのもとに誰かが神に遣わされてきたはずです。 その人によって、私たちに伝えられることがあったはずです。 その伝えられた内容を聞いて、理由は分からないが私たちの耳と心に刻まれたはずです。 私たちが「信じる」ためには、「信じるお方を呼び求める」ためには、「宣べ伝えるために人が遣わされなければならない。 宣べ伝えられなければならない。 宣べ伝えられる内容がなければならない。 聞かなければならない。 実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とパウロは語るのです。 イエスご自身もこれから宣教を開始する際に、ナザレの会堂でイザヤ書から引用し、「主がわたしを遣わされたのは、囚われている人に解放を、目に見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みを告げるため」と聖書朗読されたのでした。 神の救いの恵みを宣べ伝るために、ご自身がもうすでにこの世に遣わされている。 ご自身の口から語られる言葉、この地上に生きる姿によって伝えられる神の救いの福音を、あなたがたは聞くことになっている。 ここまでもうすでに父なる神に用意され、その約束が果たされている。 これから後は、その福音を聞いた者が信じて、呼び求めさえすれば、神の救いのご計画はその人の上に実現するとイエスは言われているのです。 問題は、この「聞く」という私たちの行いです。 神に選ばれたイスラエルの人々は、イエスの語られた福音を確かに聞いたのです。 その福音を聞くには聞いたがそれが分からず、神に選ばれたはずではない人々のところに福音が届けられ、イスラエルの人々にねたみと怒りを起こさせ、その福音を受け取らず拒むことになると預言されている。 しかし、神はこの「不従順で反抗するわたしの民に一日中、手を差し伸べている」と語っておられるのです。 
 「信仰」は、神が用意されて、遣わされた者を通して届けられる「福音」という神からの呼びかけに聞くことから始まります。 ただ聞くだけでは、「信仰」は生まれないのです。 その福音を聞いて従ってみることによって「信仰」は生まれ育まれるのです。 アブラハムも、モーセも、イザヤも何の確証も保証もなかったでしょう。 あるのは、神の約束の言葉だけです。 不安と疑いも起こり、確信もなかったでしょう。 しかし、その福音を聞いて従ってみて、神のみ心、ご愛、ご真実がすべての源であることに気づかされたのです。 私たちに願いを起こさせ、祈りを起こさせ、宣べ伝える者を遣わすのは神です。 私たちの不安と疑いを十二分にご存じな神が、私たちに繰り返し呼びかけ、私たちを練り清め、祈りを与え、信仰を与え、育み、導いてくださらないことがあるでしょうか。 パウロははっきりと、「口でイエスを主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる。」、神を呼び求める者は、与えられた信仰によってだれでも救われると言うのです。 イスラエルの人々は福音を聞かなかったのではありません。 受け取らなかったのです。 「神は一日中、すべての者のために手を差し伸べてくださっている」のです。 イエス・キリストの口から語られる福音の言葉、その働きに支えられて生きていくなら、「からし種一粒の信仰」でさえも、神のもとから出てくるものであるから不可能なことはないのです。

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「人に神を求めさせるため」 使徒言行録17章22~31節 

2021-07-11

 パウロは、アテネの町でマケドニア州の教会の混乱を心配して、シラスとテモテを待っていたのです。 ところが、そのアテネの町を巡ってみると、町の至るところに偶像があることに気づいて「憤慨した」と言います。 パウロは語らなければならない衝動にかられ、会堂ではユダヤ人や神を崇める人々と、またアゴラと呼ばれる広場では居合わせた人々と論じ合っていたと言います。 議論好き、新しもの好きのアテネの町の人々に興味をもたれていたのでしょう。 パウロは、「アレオパゴス」というアテネの町の裁判や評議が行われる公の権威ある場所で、文化的にも、人種的にも、信仰的にも全く異なる人々を前にして、その公の場の真ん中に立って「アレオパゴスの福音メッセージ」を語り始めたのです。 
最初にパウロは数々の神の像を念頭に、「知られざる神に」という自分たちにも分かっていない神の存在に対しても像を造り、崇めているアテネの人々の思いを念頭に、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしがお知らせしましょう。」と語り始めたのです。 パウロは本当の神を、「世界とその中の万物をお造りになられた神」と言います。 私たちの理性の狭い中に押し込めることのできない、すべて知り尽くすことができないお方である。 人間の手につくられた神殿などにはお住みにならないお方である。 ご自身のみ心のみによって自由に大胆に働かれる、「私たちによって仕えてもらわなければならないお方ではありません。」と言うのです。 そして第二に、「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださる神」と述べて、ご自身のみ心を果たすためには生きる命も、神のご計画に応える力も、神の存在を感じ取る霊的な力も必要なものすべてを与えてくださる。 その神を、「人に求めさせるために、人がその神を探し求め、見つけ出すことができるように」と、「神は一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせた。 そのところで、季節を決め、人々の居住地の境界をお決めになった。」 それぞれのところで遠く離れず、ふさわしい恵みを用意し、神の息吹を注ぎ信仰を与えられるお方である。 神なき世界のものとは馴染まないものであるから、私たち人間が造った金や銀や石の像と同じようなものと捉えてはならない。 
 パウロはこう語り終えて、「神はこの時代を大目に見てくださいましたが、今、皆、悔い改めるようにと命じておられます。 それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。」と言います。 どういうことでしょうか。 今は「神の寛容」の中にある時代であるが、終わりの時がくる。 神の前に一人一人立たされる決算の時がくる。 だから、向きを変えて神のもとに帰りなさい。 そのことを知らせるために、「すべての人に確証をお与えになった」と言うのです。 この「確証」とは、イスエを十字架に架けて裁き、神のもとから追放したという「神の真の裁き」が示されたことです。 そのイエスが背負われたすべての過ちを赦し、神なき世界に生きる者から神のもとで生きる者へと生まれ変わらせたという「神の真の赦し、救い」が示されたことです。 その「確証」のため、永遠の裁きによって追放されたイエスを、神なき世界の死者の中から復活させ、ご自身のもとに取り戻す唯一の道が用意された。 この「確証」を感謝して受け取るのか、疑って受け取ろうとしないのか、受け取ることに躊躇するのか。 金や銀や石の像を形づくり懸命に神を崇めていこうとする自分自身から解放されて、神にすでに知られている自分自身に気づいていく。 用意された「確証」を味わいながら、準備されたよみがえりの唯一の道をそのイエスとともに委ねて歩むようになると、パウロはアテネの人々に、そして私たちに訴えているのです。

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