秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「天まで達する階段」 創世記28章10~22節 

2020-06-21

 ヤコブは父イサクの家を離れ出て、ひとり旅の途中にあります。 理由は、父イサクの家の家督相続の問題です。 アブラハム、イサクと引き継がれてきた神の祝福を、ヤコブは自分が引き継ごうと母リベカとともに画策した。 兄エサウが神の祝福にまったく無頓着であったことを利用して、父イサクを欺き長子の権利と父親が受け継いだ神の祝福をすべて引き継ぐ約束を、知恵と策略によって手に入れたのです。 それが後日発覚して、欺かれた兄エサウの怒りに触れ、母リベカの意向もあり、その怒りを避けるため遠く親戚の家に身を隠すために、父の家を離れ出たのです。 ヤコブの心境は、殺されるかもしれないという兄エサウへの「恐れ」があったでしょう。 父イサクの家を出て、故郷を捨てなければならなかった。 せっかく手にしたと思ったすべての神の祝福を手放さなければならなかった。 また、この一人旅が無事目的地にたどり着くかどうか、たどり着いたとしても自分が迎え入れてもらえるかどうか、その保証も確信もなかったのです。 そこで、「とある場所に来たとき、日が沈んだので、一夜を過ごすことにした。 その場所にあった石をひとつとって枕にして、横たわった。 すると、ヤコブは夢を見た。」と言うのです。 
 その「夢」は、「先端が天まで達する階段」でした。 「その階段が地に向かって伸びている。 しかも、その階段を、神の御使いたちが上ったり、下ったりしている。」のです。 その階段の傍らに神が立って、ヤコブに夢の中で、「わたしは、あなたに土地を与える。 あなたの子孫を豊かに広げる。 あなたとあなたの子孫は、手放さなければならなかったわたしの祝福に入る。」と約束されたのです。 加えて、「わたしが約束したことを果たすまで、あなたがどこへ行っても、わたしはあなたと共にいる。 あなたを守る。 必ず、この約束の地に連れ帰る。 あなたを見捨てない。」と、夢の中で語られたと言います。 兄エサウを恐れて、先行きを見通せないひとり旅の途上です。 手に入れたはずのものをすべて捨てて、父の家を離れて身を隠す途上です。 人里離れた、雨露をしのぐ覆いさえない、地面に身を置いて野宿しなければならないところです。 恐れと不安と後悔の真っただ中に、日が沈んで石を枕にして寝ていたその時です。 天と地をつなぐ「階段」が見えた。 神の御使いたちが上り下りする姿が見えた。 その「階段」は、天から地に向かって伸びていた。 神と私たちを結ぶ「階段」が、天から地に向けて備えられていた。 神の憐れみによって差し伸べられた「階段」を仰ぐことができた。 神のみ心に従って働く神の御使いたちが行き来する、先端が天まで達する神との交わりを許された「階段」に、ヤコブは気づかされたのです。 羽仁もと子さんはこの「階段」を、イエス・キリストである。 私たちのもとに留まる聖霊であると言うのです。 イエスご自身も、「わたしは道であり、真理であり、命である。 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない。」と言われました。 その夢の中の階段の傍らに立って、神はヤコブに呼びかけるのです。 「今、一度は手放したこの土地、子孫の祝福をこのわたしが与える。 その約束を果たすまで、わたしはあなたとともにいる。 たとえ、あなたがどこに行ったとしても、わたしがあなたを守る。 あなたを、今ここから離れようとしているこの約束の地に再び連れ帰る。 それまで見捨てることはない。」と呼びかけられたのです。 ヤコブは驚いて、「ここはなんと畏れ多い場所、まさしく神の家である。」と告白するほどに、人を恐れていた者から神を畏れる者に変えられたのです。 父イサクを通して得ようとした祝福を、神から直接手渡される約束を得たのです。 父の家を離れた者が神の家に招かれのです。 この後、20年間にわたる寄留の身の忍耐を与えられたのです。

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「ご自分を隠される神」 イザヤ書45章15節

2020-06-14

 詩編13編に、わずか5節だけの短いダビデの詩が歌われています。 「いつまで、主よ わたしを忘れておられるのか。 いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか。 いつまで、わたしの魂は思い煩い 日々の嘆きが心を去らないのか。 いつまで、敵はわたしに向かって誇るのか。」とあります。 なぜ、神さまは、私たちに分かりやすく、期待しているような見える形で答えてくださらないのですか。 私を救うと言いながら、私を悩ましている苦しみや痛みや悲しみをなぜ許しておられるのですか。 あなたはなぜ沈黙し、何も動こうとはされないのですか。 こう思う私たちは、この詩に多く共感するのではないでしょうか。 ダビデはこの叫びに続いて、「わたしの神、主よ、死の眠りに就くことのないように 敵が勝ったと思うことのないように わたしを苦しめる者が動揺するわたしを見て喜ぶことのないように 顧みてわたしに応え わたしの目に光を与えてください。」と祈るのです。 ダビデは、「暗闇」の中にいるのです。 神が見えなくなった苦しみや痛みや悲しみの「暗闇」の中で、その原因も意味も対処のすべさえ分からないまま、動揺しうろたえている「暗闇」の中で祈っているのです。 神への恨みどころか、むしろ、ダビデ自身の姿によって、神の戦い、神の御業が損なわれることのないようにと祈り、続けて「あなたの慈しみに依り頼みます。 『主はわたしに報いてくださった』と、わたしの心は御救いに喜び踊り 主に向かって歌います。」と賛美しているのです。 
 ヨブ記に記されているヨブの生涯もまた同じでした。 ヨブは財産を奪われ、からだの痛みや苦しみを与えられ、家族、友人をも奪われました。 ヨブは主なる神に、その苦しみの原因と意味を激しく迫りました。 自分は何ひとつ、この苦しみや痛みにふさわしい過ちなど犯した覚えがないと主張したのです。 神はこのヨブの叫びに「沈黙」でした。 神は、私たちの力だけではどうすることもできない苦しみや痛みや「死」の現実を通して語ります。 私たちひとりひとりの人生は、決して私たちのものではありません。 私たちを必要な者として命を与えてくださった神のものです。 その神によって生かされている存在であることに私たちが気づくまで、ずっと神は待っておられるのです。 神のヨブに対する答えは、ヨブが求める苦しみの解決ではありませんでした。 苦しみをもたらした状況は何ひとつ変わらなかったけれども、ヨブ自身が変えられたのです。 自分の苦しみの解決の答えを与えてくださるお方として神を仰いでいたヨブは、すべてを支配されているお方として、身を委ねて神を仰ぎ見ることができるようになったのです。 ヨブの疑問は解決したのではなく、解消していった。 神から回答を得る必要がなくなったのです。 
 イザヤ書45章には、驚くべきことが示されています。 敵のまたその向こうにいるペルシャ王を用いて神の民を捕らえているバビロンを滅ぼすという、思いもつかない形で解放を与えると言うのです。 それは、ペルシャ王自身が神を知るためであった。 バビロンに囚われている神の民を解放するためであった。 ペルシャ王がこれから従わせるすべての国の人々が、同じように神を知るためであったと言うのです。 ペルシャ王に、「暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。 あなたは、わたしが主であること、あなたの名を呼ぶ者イスラエルの神であることを知るようになる。」と言い、支配されるようになったアフリカの国々の人々が、「まことにあなたは御自分を隠される神、イスラエルの神よ、あなたは救いを与えられる。」と語ったように、神の御業が成し遂げられると告げられたのです。 神は「暗闇」の中におられるのです。 明るいところでは見つけることのできないお方、捜し求めなければ見出すことのできないお方なのです。

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「人の計画と神の計画」 箴言16章1~9節

2020-06-07

旧約聖書の「箴言」は、この世で言う人間の身のこなし方を、「教訓や戒めや格言」として語っているのではありません。 「神の知恵」について語っています。 「主を畏れることは知恵の初め。 無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」と言います。 限りのない神の知恵、私たちには測りがたい捉えどころのない神の知恵を、神への畏れを前提に語っています。 神の知恵に与るには、神を畏れることから始まる。 神への畏れがあるなら、人生のどのようなところにおいてもこの「神の知恵」に委ねることができるようになると語るのです。 新約聖書では、旧約聖書で語られている「神の知恵」そのものがイエス・キリストである。 「知恵と知識の宝はすべてキリストの内に隠れています。」(コロサイ2:3) その「キリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた。」(コリント一1:30)と信仰告白しています。 聖書で言う「知恵」とは、人の目や耳には隠されている「神の知恵」です。 触れることによって、味わい体験することによって自分自身の愚かさを知らされます。 愚かな自分に砕かれて、思いをはるかに超えたスケールの大きな「神の知恵」に気づかされる時がくるのです。気づかされたその「神のご計画、神のみ心」にその身を委ねることができるようになる。 それに信頼を置いて生きるようになると語っているのです。
 1節と2節に、「人間は心構えをする。 主が舌が答えるべきことを与えてくださる。 人間の道は自分の目に清く見える。 主はその精神を調べられる。」と言います。 人間は様々な計らいをもちます。 自分の知恵をもっているのです。 短い生涯のなかでそれぞれにふさわしく築き上げてきているのです。 聖書はそれらのものを肯定も、否定もしていないように思います。 しかし、「人間の知恵、人間の思い、人間の計画」と、「神の知恵、神の思い、神の計画」とは異なるとはっきり語っているのです。 イエスは愚かな金持ちの譬えでこう語っています。 「自分のために富をいくら積んでも、神の前に豊かにならない。」 人間の計画するもの、備えるものほど頼りないものはない。 動かしているのは、神の知恵、神のみ心、神の計画である。 神の愛が私たちを動かしていることに、また、支えているのは神の力、神のご真実であることに気づかないのかと響いてきます。 人間は、自分の知恵で動くことによって裏切られ、挫折し、絶望し、砕かれていくのです。 その挫折、絶望の彼方に初めて、神のご愛、神の力、神のご真実があること、それが動いていることに気づかされるのです。 そこにはまったく次元の違う「神のご計画、神の知恵」が存分に働いて、長い時を経て私たちを支え導いてくださっていることに初めて気づかされるのです。 私たちの頼りない計り事とはまったく異なる「神の計画、神の知恵」に、たとえ分からなくても、信じることができなくても、イエスはそれに委ねなさいと言われるのです。 マリアは、自分の身に幼子イエスが宿ることを告げられても喜ぶことはできませんでした。 自分のものさし、常識では受け止めることができなかったのです。 イエスが十字架に架けられるまで、不安と思い煩いの連続でした。 それでも、マリアは神のご計画が分からなかったけれども、信じ切ることはできなかったけれども、「神の約束、神の計画、神の知恵」にその身を一生涯委ねてささげる「祈りの生涯」でした。 箴言16章は、だから「あなたの業を主に委ねれば、計らうことは固く立つ。 主は御旨にそってすべての事をされる。 人間の心は自分の道を計画する。 主が一歩一歩備えてくださる。」と言っているのです。 「委ねる」ということは、神のご愛、神の力、神のご真実に動かされて、自分が選び取った道を主を仰ぎながら従って行こうとする「祈りをもつ」ことです。

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「聖霊とは何ですか」 コリントの信徒への手紙一15章1~11節

2020-05-31

 聖霊が弟子たちのうえに降った時の様子です。 「一同が一つとなってともに祈っている。 そこに、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 炎のような舌が分かれ分かれ現れ、一人一人のうえにとどまった。」とあります。 聖書は、聖霊が降るのは突然である。 聖霊は、風が吹いてくるようなもの、天から降ってくるもの、神のもとからくるもの、一人一人に分かれてとどまるものであると言うのです。 イエスは、「見えるものではなく、信じることによって神の国に入りなさい。 生まれながらもっている命とはまったく異なる新しい命をいただいて神の国に入りなさい。 肉から生まれた者は肉である。 霊から生まれたものは霊である。 新しく生まれねばならない。 霊から生まれて神のものとならなければならない。 その霊は風のようだ。 思うままに吹く。 風の音を聞いても、それがどこから来て、どこに行くか分からない。 霊は支配したり、自分のものにしたりできるようなものではない。 神のものである。」と言われたのです。 「聖霊が降る」ということは、自分の中から出てくるはずのない、神のもとからくるものが自分の中に宿り、それが生きて働くことに突然気づかされることである。 それは学んだり、守ったり、聞いたりするものを超えて体験するものであると言われたのです。 私たちの世界は、見えるものを見えないものに優先させてきた世界です。 確かめることのできるものを確めることのできないものに優先させてきた世界です。 見えるものだけしか、現実と思わない世界です。 少し前まで人間は、地球が宇宙の中心であり、太陽やその他の星は地球の周りを回っていると考えていました。 自分中心の世界からは決して見ることのできない神の世界があるのです。 人間の五感では見ることも、理解することもできない世界があるのです。 この膨大な世界を創られたお方のもとに憩う時に初めて、本当の安らぎと慰めがあるのでしょう。 ですから、私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ「信仰」に生きるのです。 永遠に変わることのないものに目を注いで、その身を委ねるのです。 コロナとともに生きる時代、この非接触を余儀なくされる時代にこそ、霊の目を凝らして見えないものに目を注いで、その信仰と祈りが与えられるよう求めざるを得ないのではないでしょうか。 パウロはこの体験をした代表者です。 「わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者です。 使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」と告白しています。 しかし、パウロは自分が殺したイエス・キリストに出会ったと言うのです。 死んでこの世にいないと思っていたイエス・キリストが、自分が迫害しているその弟子たちの中に宿っていることをはっきりと見出した。 そのイエスは、「なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかけられるお方であった。 「あなたはどなたですか」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えるお方であった。 その姿を目で見ることのできなかったパウロに、アナニアという人の姿をとって直接出会われたお方であった。 人の中に宿り、その人を用いて直接働かれるお方であった。 その霊がパウロに満たされて、「パウロの目からうろこのようなものが落ち、再び新しく目が見えるようになった」のです。 パウロはこの「イエス・キリストの霊をもつ者」となったという体験を、ここで福音として語っているのです。 「今日のわたしがあるのはこの福音を受け入れたから、十字架につけられたキリストという霊を受けたからです。 わたしが働いたのは、この十字架につけられたキリストが聖霊という姿をとって、わたしに宿り働いてくださって、出会ってくださったからです。」と言うのです。

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「聖書全体にわたり」 ルカによる福音書24章13~27節

2020-05-24

 「ちょうどこの日」とは、週の初めの日、イエスが十字架に架けられた金曜日から三日目の日です。 イエスの遺体が納められた墓に婦人たちが赴いて、その墓の中にその遺体がなかった、「復活なさった」と神の使いから知らされた「ちょうどその日」です。 エルサレムから少し離れたエマオという村に向かう「二人の弟子」の姿が記されています。 「神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 イスラエルを解放してくださると望みをかけていた人物でした。」と告白しているように、二人は全幅の信頼を寄せてイエスに従ってきたのでしょう。 そのような立派なお方が、祭司長たちや議員たちによって十字架に処刑されてしまった。 すべてが終った。 夢も希望もなくなった。 それどころか、イエスに従ってきた自分たちの身にまで危険が迫ってきている。 その危険なエルサレム、そこに居ることさえ辛いエルサレムから、自分たちの村に急いで戻っているその途上にあるのです。 
 エルサレムで起きた「一切の出来事」について、「二人は歩きながら話し合い、論じ合っていた。」と言います。 どうしてそのようなお方が十字架で殺されなければならなかったのか、その意味が分からず絶望と不安の中にいる時です。 「そのイエスは生き返っておられる」という「たわごと」のような婦人たちの報告を聞かされ、戸惑い混乱している時です。 その「十字架に架けられ処刑されたはずのイエス」が、二人と同じ方向を向いた「ひとりの旅人」として、二人に追いついて現れた。 しかし、「二人の弟子の目は遮られていて、それがイエスだとは分からなかった。」とあります。 「復活されたイエス」は、この世のものを超えたものですから、「分からなくて当然、捉えることができない」と聖書は言うのです。 しかし、もうひとつの意味で、二人の弟子はイエスの姿を見ることができなかったのでしょう。 私たちは自分を救ってくれる、自分の願いを叶えてくれるイエスなら、その姿はよく見えるでしょう。 しかし、自分に悲しみや苦しみを与えるようなイエスなら、自分の願いを叶えることのできないイエスなら、その姿を見出すことは難しいのでしょう。 「行いにも言葉にも力のある預言者、イスラエルを解放してくださると期待をもたらす輝かしい人物」としてイエスを見ていた二人の弟子は、「十字架に架けられて殺されたイエス」を見ることも、受け入れることもできなかったのです。 その二人にイエスは、「近づいて来て、一緒に歩いて行かれた」と言うのです。 それだけでなく、「歩きながらやり取りしているその話は何のことですか」と語りかけられるのです。 イエスはすべてをご存じで、「近づき、語りかけ、ともに歩き」、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、イエスについて書かれていること」を説き明かしてくださるのです。 わずか三日間の出来事だけを見て、今まで抱いていたお方とは違うイエスに失望し、絶望し、悩み、逃げ出した二人の弟子に、イエスは彼らの量りとは全くスケールの違う大きな神の量りを語りかけるのです。 私たちの狭い、小さな自分の思いに縛られている量りから解放されて、神さまの恐るべき大きな、救いのご計画の量りに触れることができるのです。 これこそ、イエスの姿が見えなくなった時の神による聖霊の働きです。 ですからイエスは天に上られる直前に、「エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる。」と言われたのです。 二人の弟子は、「イエスを無理に引き止め、自分の家にイエスを招き入れ、そこでその家の主人の座をイエスに引き渡した」その時に、二人の目が開かれたと言います。 聖書全体にわたり説き明かされイエスを主人として受け入れた時に、目が開かれたのです。

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「御子のうちにとどまりなさい」 ヨハネの手紙一2章18~27節

2020-05-17

 今日の聖書箇所のヨハネの教会に、問題が発生したようです。 当時はまだ、キリスト教の信仰が広く確立していない状態でしたので、様々な混乱があったことは事実でしょう。 教会は歴史的にも、信仰の違いから分裂と対立が繰り返されてきたことも事実です。 様々な違いが入り乱れて、始めの頃の教会が築き上げられたのでしょう。 しかし、ヨハネは、もし分裂や対立があったとしても、この一点をもとに立ち帰りなさい。 「イエスがメシアであることを否定する者」があるなら、これは「偽り者、反キリスト」であると言うのです。 聖書はこの「反キリスト」は、「終わりの日」にはたくさん現れると言います。 聖書で言う「終わりの日」とは、イエス・キリストが再び顕れ、神の国が完成する時のことです。 イエスご自身と面と面を突き合わせて出会うことができる時、喜びの時には、「神の業を妨げようとする力」がたくさん現れると言うのです。 ヨハネは、教会が分裂することを憂えているのではありません。 「イエスがメシアではない。 救い主ではない。」という、イエスと父なる神が結びついていない信仰がたくさん現れ出ることを憂えているのです。 
 このヨハネの手紙が書き起こされた時代から遡ること700年前、ユダヤの国が周囲の強大な国に滅ぼされた時、ハバククという預言者がユダヤの人びとにこのように語っています。 「主は私に答えて言われた。 『幻を書き記せ。 走りながらでも読めるように 板の上にはっきりと記せ。 定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。 それは終わりの時に向かって急ぐ。 人を欺くことはない。 たとえ、遅くなっても、待っておれ。 それは必ず来る、遅れることはない。 見よ、高慢な者を。 彼の心は正しくありえない。 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。』」(ハバクク2:2-4) 「なぜ、このような仕打ちを私たちは受けなければならないのか」というユダヤの人びとの叫びに対する主の言葉です。 「定められた時がくる。 終わりの日が、たとえ遅くなっても待ちなさい。 それは必ず来る、遅れることはない。 この神の約束に聴き従う人は信仰に生きる。」という約束の呼びかけでした。 ヨハネは、「イエスがメシアであることを受け入れる者であるか。 これを否定する者であるか。 この一点をもって信仰を見極めなさい。 御子を認めない者は、だれも御父に結ばれない。 初めから聞いていたことが、いつもあなたがたの内にあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいる。 教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」と、ヨハネの教会の人々を励ますのです。 先行きを見通すことのできない時こそ、どうしたらよいのか分からない時こそ、危機的な状況が深刻であるからこそ、信仰の根本的な問題であるからこそ、ヨハネはイエス・キリストのもとに立ち帰り、そこにしっかりと立つことを勧めるのです。 人間の知恵や工夫や努力に頼ることなく、自分たちの判断やコントロールによって推し量るのではなく、神が今、ここでなさろうとしておられることを尋ね求めなさい。 そのために神の前に立ちなさい。 イエス・キリストのとりなしの祈りにすがりなさい。 そのもとにとどまりなさい。 そのために、主の名によって集まり、聖霊の導きを求めなさい。 神のみ心だけを喜ぶ群れでありなさいと響いてくるのです。 「人は信仰によって生きる」のです。 「とどまる」とは、神のみ言葉がその人の内に宿って、肉体となるということです。 そのみ言葉の内に生きるようになる。 御子と共につながっているということです。 そして、日に日に新しくつくり変えられる。 「『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていく」(コリント二4:16)ということです。 内に宿る霊が私たちに悟り、教え、導いてくださるのです。

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「待ってくださる神」 ルカによる福音書15章11~24節

2020-05-10

 「徴税人や罪人」という社会からレッテルを貼られて、疎まれている人々を招いてともに食事をしているイエスを許すことのできないユダヤ社会の指導者たちにイエスは三つの譬えを語っています。 「百匹の羊をもっている人が、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹の羊を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて探さないだろうか。 もし見つけたら、友達や近所の人々を呼び集めて見失った羊、無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでくださいと言うであろう。」と語り、その三番目にこの「放蕩息子」の譬えが語られたのでした。 「見失った一匹の羊」、「無くした一枚の銀貨」と、ひとりで自分の思う通りの人生を送ろうとした弟息子は、見出される、見つけ出される存在としては全く同じです。 しかし、ひとつだけ、この譬えには違いがあります。 弟息子は見つけ出される前に、「我に返った」とあります。 自由気ままに、父にも兄にも囚われない気ままな生活が魅力的であったのかもしれない。 分け与えられた財産をすべて直ちにお金に換えて、そのお金を使い果たしながら気ままな生活を送っていたのです。 ついには、そのお金を使い果たし、食べることにも窮する豚の世話をする者にまで落ちぶれてしまった。 ユダヤ人は豚を汚れたものとしています。 ユダヤでは考えられないところにまで、弟息子は身を落としたということでしょう。 その時です。 弟息子は「我に返った」、自分を見失ったところから自分の姿を見つめるまでに立ち帰った、目が覚めたと言います。 自分はもともと、父の息子であったことを思い返すことができるようになった。 父のところに戻って、自らの言葉で「わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。 雇人の一人にしてください。」と言おうと、覚悟して父のもとに帰って行ったと言います。 弟息子は、父の息子であったという、当たり前と思っていた恵みを忘れてしまっていたことを知らされたのです。 もともと神によって、父によって当然のように与えられていた恵みを自分勝手な思いによって捨ててしまったと告白し、「わたしはどのような扱いをされてもいい。 再び父との関係を取り戻したい。」 この一心で戻って行った弟息子の姿は、悔い改めの姿に映るのです。 この弟息子の姿を見つけ、弟息子が何も言わない前に抱きしめている父の姿が語られています。 父は必ず戻ってくると待っていたからこそ、遠く離れていたのに見つけることができたのでしょう。 自分を見失っていた弟息子を悲しんでいたからこそ、その姿を憐れに思ったのでしょう。 弟息子が語ろうと思った三つの言葉を遮るかのように、父は「一番良い服を着せた。 手に指輪をはめた。 足に履物を履かせた。」と言います。 雇人や奴隷としてではなく、父の家の継承者として、死んでいたのに生き返った自分の息子として、再び父が喜んで自分の家に迎え入れたのです。 父は弟息子が悔い改めたから迎えたのではありません。 過去の過ちに関係なく、無条件で迎え入れ祝宴を挙げているではありませんか。 父の家を受け継ぐことのできる者は、言いつけを守ったからでも、正しい行いを守ったからでもありません。 無条件に赦されている恵みに気づいて、その恵みを感謝して受け取ることのできた者です。 弟を失った父の悲しみも、弟を迎える父の喜びをも分からない兄にも父は言うのです。 「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。 いなくなったのに見つかったのだ。 だから祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と、父は兄もまた弟と同じように「失われた存在」から取り戻そうとされるのです。

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「福音の力」 ローマの信徒への手紙1章16~17節

2020-05-03

 パウロはその人生で大失敗もし、そして大転換もしています。 紆余曲折を経て、パウロはその生涯をイエス・キリストというお方とともに生きる、この十字架のイエス・キリストとともに歩む生涯へと身を委ねていきます。 このイエス・キリストに示された福音を語り告げる希望を、このロ-マの信徒への手紙に書き留めています。 単なる手紙ではなく、パウロが体験したその福音を広く告げ知らせるために書き記された、パウロによる福音書ではないかと思わされるのです。 先ず、パウロは、「わたしは、自分に与えられているこの福音を恥としない。」と言います。 パウロにしては「福音を恥としない」ではなく、なぜ「福音を誇りとします。」と叫ばず、このような消極的な信仰告白となったのだろうかと思わされます。
 イエスが弟子たちに、十字架に架けられ殺されるという予告を語られた時がありました。 「わたしは長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて、十字架に架けられ殺される。 そしてその三日後に復活することになっている。」とイエスが予告された時のことです。 ペトロは、このイエスのあまりの情けない予告に、「イエスをわきへお連れし、そんなことは言わないでほしいといさめた。」と言います。 これから自分たちの国の再興に向けて、その先頭に立っていかれるお方が、そのような惨めな情けない予告をしないでほしい。 毅然として、この世の権威である長老、祭司長、律法学者たちに、イエスこそ立ち向かって行ってほしい。 これが弟子たちを代表してのペトロの強い思いでした。 それにイエスはきっぱりと言われたのです。 「サタン、引き下がれ。 あなたは思い違いをしている。 神のことを思わず、人間のことを思っている。 わたしの後に従いたい者は、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、わたしもまたそのものを恥じる。」(マルコ8:31~38)と、ペトロを叱って言われたのでした。 パウロは、イエスのこの十字架による死と復活は、神を信じる者にとっては躓きの出来事であったとよく分かっていた。 この世的には、神に最後まで従い続ける者の姿としての十字架に架けられて殺された姿は、無力で弱い者の象徴的な姿です。 愚かな敗北の姿にしか見えなかったのです。 パウロはそのことをよく分かったうえで、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(コリント一1:18)と言うのです。 ナザレの人イエス・キリストという人物に示された神の福音の出来事は、知識や教養では理解することのできないものである。 実体験した人でなければ、味わい知ることのできないものであるとパウロは承知していたのです。 ですから、パウロは、「福音を、人々が言うように恥とはしない。」 一度や二度の体験ではなく、日々新たに新しくつくり変えられていく恵みの体験である。 「福音は、ユダヤ人を始め、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力であるからである。」と断言するのです。 なぜ、このような私に救いがもたらされたのか自分にも分からない。 神のものとされる理由のない、資格のないこの私が、神のものにされたのか自分には分からない。 しかし、すべて神が説明してくださる。 これが神から与えられた福音である。 神ご自身が霊の力によって自ら働いてくださる神の力であるからだと胸を張って誇っているのです。 その神の力は、「初めから終わりまで信仰を通して実現される。」と語ります。 この神の力は信じる者の内に向かって働きかけ、その人を新しい姿へと造り変えるのです。 その力の向きは信じる者の願いではなく、神のみ心に向かって働きかけていくのです。 神に属する命とその輝きに与る者とされる。 それが今、現実の力や姿となると言うのです。

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「ダビデの賛歌」 詩編23編1~6節

2020-04-26

 人一倍激しくその生涯を濃厚に生きたダビデは、多くの詩を書いて自分の生涯を振り返って主を賛美しています。 この詩篇23編でもその前半部分で、「主はわたしの本当の羊飼いであった。」と振り返ります。 「不安と戸惑いの中にあったこのわたしを、主は青草の原に休ませてくれた。」 「憩いの水のほとりにまで導いてくださって、わたしの魂を生き返らせてくださった。 だから、これから死を迎えようとしているこのわたしには、何も欠けることがなかった。 何も困ることはなかった。」と賛美します。 ひとりの羊飼いに過ぎなかったダビデは、イスラエルの王にまで駆け上がった人物です。 その地位にまで上り詰めるにあたっては、自分の才能、体力、経験、知恵をフルに用いてきたことでしょう。 あるいは、人からの名声や賞賛や地位もまた活用したことでしょう。 長い間そのようなものを振り回し、あるいは振り回されてきた。 しかし、その生涯を終えるにあたってはそうではなかった。 最後にダビデは「主がわたしの羊飼いであった。 最後までわたしを見届け、導いてくださった。 たとえ、死の陰の谷を通されるような災いのときにも、わたしは不思議と恐れることはなかった。 それは、主がこのわたしと共にいてくださったからだ。 主の羊飼いとしての鞭と杖がわたしを力づけてくださった。」と、その生涯を振り返って賛美しているのです。 ダビデにとって、主の鞭や主の杖とは果たして何であったのでしょうか。 羊飼いとして自分の生涯をコントロールしていこうとしたダビデこそが、様々な災いとも思われる出来事を通されて思い悩み、うろたえるこの自分こそが迷える羊であった。 歩むべき道を取り間違えた時も、このわたしを取り戻してくださった。 自ら踏み込んでしまって「死の陰の谷」を歩んだときでさえ、災いを恐れとは感じさせず、あなたの鞭と杖によってむしろその道を潜り抜けるまでわたしは力づけられた。 「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださった。 わたしに油を注いでくださった。 わたしの杯に、恵みを溢れさせてくださった。」と、感謝のうちにその生涯を振り返っているのです。 そして、「その導きに身を委ね、歩み通したその後には、わたしは主の家にたどり着く。 そこにとこしえに留まることが赦されている。」と、最後まで主に望みをおいて希望をもって賛美しているのです。 
 自分がどのようにその生涯を歩んだのかではなく、主がわたしの生涯にどのようになされ、わたしとともに歩んでくださったのか、また歩もうとしてくださったのかに目を注いでいるのです。 そして、その主の働きにこそ、心から期待し、希望を抱いていると思わされるのです。 「死の陰の谷を通ったときも あなたはわたしと共にいてくださり、わたしを力づけてくださった。」と叫んでいます。 他の詩篇の箇所にも、「あなたは多くの災いと苦しみを、わたしに思い知らせましたが、再び命を得させてくれるでしょう。 地の深い淵から 再び引き上げてくださるでしょう。」(詩編71:20)という叫びもあります。 また、「深い淵の底から 主よ、あなたを呼びます。 わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、みことばを待ち望みます。 わたしの魂は主を待ち望みます。」(詩編130:1,5,6)と叫びます。 自分を支えるものが何もない、一切頼るべきものがない。 主の前に立ちようがない、立つ資格もない。 主のみ言葉に耳を傾けることも、悟ることも、それにふさわしい行いすらもできない。 立ち向かう信仰すらもっていない。 そのようなところからでも、「わたしは、あなたを呼び求めます。 再び命を得させて、再び引き上げてくださるでしょう。 わたしは主に望みをおきます。 わたしを追いかけてくださる恵みと慈しみにすがります。」と叫んでいるのです。

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「共に喜ぶ」 フィリピの信徒への手紙2章12~18節

2020-04-19

 パウロは自分自身が獄中に囚われているにも関わらず、フィリピの教会の人々にこう書き送っています。 「わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」と言います。 ここで使われている「従順」という言葉は、「聴く」という意味合いの言葉の語幹から出てきている言葉です。 「聴き従う」という言葉に近いかもしれません。 権威に従うというような意味ではなく、「信じる」がゆえに従っていくという意味でしょう。 まさに、父なる神に対するイエス・キリストの姿がこの「従順」の象徴です。 キリストが十字架で示してくださった「従順」がもたらすところに、神のみ言葉に聴き従う本当の「喜び」がある。 世界がどのように移り変わったとしても、また身の回りがどのようになったとしても、この与えられた「喜び」を味わうところには、本当の「平安」、「希望」がある。 その信仰の姿である「従順」でもって、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」とパウロは言うのです。 「自分の救い」の実感は、古い自分の生き方に向きを変えて、今までとは違うところに目を注ぎ始めることができた時に感じたことでしょう。 信じて、一歩、足を踏み出す決意をした時に感じたことでしょう。 
 しかし、「私たちの救い」はそこで終わらないのです。 そこから出発する、救われてから後の信仰生活があるのです。 「私たちの救い」を達成するためのプロセスに入る、目標に向けて歩んでいくという道のりがあるのです。 そして、パウロが「キリストの日」と称している、神の国に入って「私たちの救い」が完成される日を目指して歩んでいくのだとパウロは勧めるのです。 この「私たちの救い」の入り口に立たされた時、すでに神の一方的な恵みによる導きであったように、「私たちの救い」の完成に至るまでの間もまた、「あなたがたのうちに働いて、み心のままに望ませ、行わせているのは神である。 だから、あなたがたは恐れおののきつつ、自分の救いを達成するようにこのお方と共に努めなさい。」と言うのです。 神さまは、みことばを与えることによって、私たちに「希望」を与え、「祈り」を与えてくださいます。 私たちの「希望」や「祈り」に応えて、ご自身のみ心を果たすために、「聖霊」を遣わし事を成し遂げてくださるのです。 この「聖霊」を私たちのうちに宿すのでなければ、「私たちの救い」は達成することが叶わないのです。 神さまは今もなお、「私たちの救い」を達成するために、「聖霊」の姿をとって共に働いてくださっているのです。 「だから、何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 そうすれば、とがめられることのない清い者となる。 よこしまな曲がった時代の中で、非の打ちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。」とパウロは言うのです。 信頼をもって、神のみ言葉に委ねていこうとする「従順な信仰者」に対する神の働きの結果が、その姿に必ず現れ出る。 神に属する者として、神ご自身がその輝きによってこの世にあって照らし出してくださると言うのです。 「救い」は、信じる個々の人間のうちに働いて、古いしがらみから解放され、姿までもが変容するという個人的な面があります。 パウロはそれに加えて、信じる者たちの間に働かれる「聖霊」の働きをその「交わり」の中に見出しているのです。 自分も、フィリピの人々も共に、神によってこの世から呼び出された者である。 「終わりの日、イエス・キリストに出会うその日」に、それぞれの「救い」が完成するまで、神がこの世で働くために「聖霊」を宿すことが赦された者どうしであると、「わたしは喜びます。 あなたがたも同様に喜びなさい。」と、獄中から呼びかけているのです。

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