秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「どこまでも捜し求めるお方」 ルカによる福音書15章1~7節

2017-11-12

 イエスを囲んで、喜びにあふれて一緒に食事をしている人たちがいます。 「イエスの話を聞こうとして近寄って来た人たち」でした。 「徴税人や罪人」と表現されています。 一方で、イエスのいるところから遠く離れて立っている人たちがいます。 楽しそうに食事をしている人たちの姿を見て、「不平を言いだした人たち」でした。 「ファリサイ派の人々や律法学者たち」と表現されています。 当時の「徴税人や罪人」とは、「ファリサイ派や律法学者たち」によって「正しくない人」として社会の外に押しやられていた人たちです。 「正しい人」と思っている人たちが、「どうしてこのような人たちを迎えて、一緒に食事をしているのか」と、イエスご自身に詰め寄ったのです。 その時のイエスの語られたたとえが、今日の聖書箇所です。
「羊飼い」と「羊」のたとえでした。 野原に「残された九十九匹の羊」と「見失われた一匹の羊」のたとえでした。 羊飼いが毎夕、その羊の群れを囲いの中へと追い込む際には必ずその羊を数えるという習慣をたとえたのでしょう。 村全体の宝であった「羊」が一匹でも見失われた際には、見つけ出された「羊」を肩にのせて村に帰ってくる「羊飼い」を見て、村全体が喜びの歓声を挙げる風景が日常であったのでしょう。 イエスは、「一匹の羊が見失われたなら、九十九匹の羊を野原に残して、見失った一匹の羊を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。 見つけたら、喜んでその羊を担いで家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて『一緒に喜んでください』と言うであろう。」と言われたのです。 イエスにとっては、「一匹」ということだけでも大切なのです。 その「一匹」が見つけ出されたということ、見失われて戻ってきたということが何ものにも替えがたい「喜び」なのです。 『一緒に喜んでください』と分かち合うことができるほどの「喜び」なのです。 この聖書箇所では、神に見出されて戻ってくることができることを「悔い改め」と表現しています。 「悔い改め」とは、後悔したり、反省することではありません。 向きを変えて、神に見出されて戻ってくることです。 それが神のこの上ない「喜び」である。 皆とともに喜び合う「喜び」であると語っているのです。
 「羊飼い」は、「一匹の羊」が見失われたなら、見つけ出すまでどこまでも捜し求めます。 その「一匹の羊」は、決して群れから離れてしまってはならない愛されている存在なのです。 私たちは迷い出て、自分がどこにいるのか分からなくなっている存在であることを知ることです。 見つけ出すまでどこまでも捜し求めてくださっているお方のもとに、立ち戻ることが赦されている存在です。 捜し求めておられるお方に愛され、決して失われてはならない存在であることを知ることです。 そこには、そのお方とともに喜び合う世界が拡がっています。 今、ここにその世界が訪れていると、イエスは「羊飼い」の「見つけ出す喜び」を語っています。 「羊飼い」によって「見出される喜び」が、「羊」にはあると語っています。 そして、その「見失われた一匹の羊」を見つけ出したなら、喜んでその「羊」をかついで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて喜び合う「分かち合う喜び」を語っています。 なぜ、あなたたちは、その喜びを分かり合うことができないのかと、イエスは「不平を言いだした人たち」に語られたのです。 私たちは、このイエスの「見出される喜び」に生きることが赦されています。 このイエスの「見つけ出す喜び」に用いられて、「イエスの喜び」に生きていくことができるのです。

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「危機に働かれる神」 エレミヤ書29章10~14節

2017-11-05

 「あなたたちのために立てた計画は平和の計画であって、災いの計画ではない。 将来と希望を与えるものである。」というこのみ言葉に耳を傾ければ傾けるほど、この神のご計画のすさまじさに驚かされます。 何年経とうが、どれほどの時間をかけようが、また私たちが思いつきもしない、考えもしないものを用いてでも、神はたったひとりの口に授けられたみ言葉だけによって、成し遂げられるお方であることがよく分かります。 
小さな国であったユダの国は大国バビロンによって占領され、崩壊寸前でした。 ユダの国の有力者、職人や戦士たち一万人近い人たちが、エルサレムからバビロンに連れ去られたと言います。 その荒廃したエルサレムに、「わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべてを語れ。 わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す。」と、しり込みをするエレミヤを神は立てられたのです。 偽預言者や占い師たちは盛んに、「エルサレムは神に守られている。 バビロンがエルサレムから奪い取って行った神殿の祭具はすべて戻ってくる。 バビロンへ連行された人たちもまた、二年のうちには戻ってくる。」と語っていたのです。 この耳に心地よい彼らの言葉を、エルサレムの人々は信じていたのです。 今朝の聖書箇所は、そのバビロンの地にいる人々にエルサレムから書き送ったエレミヤの手紙の一部です。
 その手紙の冒頭に、「イスラエルの神、万軍の主は言われる。 わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。」とあります。 神は、あなたがたは敵の国であるバビロンが自分たちを捕らえて、こんなところにまで連れて来たと嘆いているかもしれない。 そうではない。 私があなたがたを、エルサレムからバビロンに送ったのだと言っているのです。 「そこで、家を建てて住みなさい。 木を植えてその実を食べなさい。 人口を増やしなさい。 その町のために祈りなさい。」と言われているのです。 手紙を書き送られた人々は、敵の地で苦しみを味わい、すぐにでも故郷に戻りたいと熱望している人々です。 エレミヤの手紙は、慰めにも、励ましにもなりません。 しかし、神はエレミヤを通して、あなたがたの思い描く将来と希望は、神のみ心とは異なるものであるとはっきり告げるのです。 あなたがたがしがみついているものは、エルサレムの神殿や祭儀である。 自分自身の思い描く目に見える希望である。 神はそれらをことごとく砕いて、「バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。 わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。 これは平和の計画であって、災いの計画ではない。 将来と希望を与えるものである。」と方向転換を迫ったのです。 この七十年という時はいったい何でしょうか。 人々の目が開かれるに必要な時間でしょう。 神のみ言葉に聴き従わず、自分たちの思いを実現しようとした人々の目が開かれるために、またエルサレム神殿にすがり、かつてのダビデの権力にしがみついて耳が聞こえなくなってしまっている人々が砕かれるために必要な時間です。 その時が満ちるまで、備えなさい。 故郷に帰るまで、その町の繁栄を祈りなさいと言われたみ言葉は、バビロンを呪い、その滅びることだけを願っていた人々の思いを根底から覆すみ言葉でした。 神はみ言葉通り、別の大国ペルシャを用いてバビロンを滅ぼし、「捕囚の民を帰らせる。 呼び集める。 連れ戻す。」と言われたみ言葉を成し遂げられたのです。 エルサレムの破滅と苦難の道を越えて、エルサレムの人々の絶望を越えて、神はご自身の将来と希望へとみ言葉だけによって大転換させたのです。 壊し、砕く神は、耕し、植えて、建て上げる神です。 私たちの絶望が、神の希望へと生まれ変わるのです。 み言葉を遮るものが取り除かれ、自分の思いとはまるで違う生き方が与えられるのです。 これは、今あるもの、手にしているものからではなく、まったく新しい神のもとからくる恵みなのです。

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「十字架のそばにいるイエスの母と弟子」 ヨハネによる福音書19章25~30節

2017-10-29

 イエスの人間としての地上での最後の時は、十字架にかけられている時でした。 最後の場所は処刑の場でした。 そこには、イエスを欺いて策を弄して告発した人々がいる。 処刑されているイエスを、ただ眺めているだけの人々がいる。 イエスの服を分け合う自分勝手な兵士たちがいる。 愚かに見える、みすぼらしく見えるイエスの姿を嘲り笑う人々がいる。 聖書は、そのような悲惨で、孤独で、残酷な十字架のすぐそばに、「イエスの母と母の姉妹、クロバの妻マリアとマグダラのマリアとが立っている。」と言います。 そして、「イエスの母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、イエスは呼びかけられた。」と言います。 怒号や叫び声が渦巻く騒がしい処刑のさ中に、イエスの小さな短いみ言葉が十字架の最後に語られたと聖書は語っています。 今まさに息を引き取ろうとしている十字架のうえのイエスが、母マリアに「婦人よ、御覧なさい。 あなたの子です。」 更に、幼い年齢であったので捕らえられる恐れがなかったのかもしれない「愛する弟子」に、「見なさい。 あなたの母です。」と言われたのです。 聴き取られたイエスのふたつの言葉はどういうことなのでしょうか。 これを聴き取ったイエスの愛弟子は、「そのときから、イエスの母を自分の家に引き取った。」と言うのです。 ご自分の死に及んで、自分の母を遺すことになる。 身近に頼れる人に、お母さんをよろしく頼むと言っているように聞こえる。 確かに、この愛弟子に母マリアを託したのでしょう。 だから、この弟子は、イエスの母を自分の家に引き取ったのでしょう。 しかし、考えてみてください。 この短いふたつの言葉を語り終えた後すぐに、イエスは「渇く。 成し遂げられた。」と言われて、頭を垂れて息を引き取られたのです。 その最後の瞬間に語られた言葉が、「婦人よ、御覧なさい。 あなたの子です。 見なさい。 あなたの母です。」という言葉なのです。 これがなければ、神のみ心は成し遂げられなかった。 このみ言葉が語られなければ、イエスは息を引き取ることができなかったと言わんばかりのイエスの言葉です。 十字架上の七つの言葉のうちの一つです。 なぜ、イエスは身内に向けた言葉と思われるような言葉を語られたのでしょうか。 
 人間的にみれば、人生の終わりの言葉でしょう。 しかしイエスにとっては同時に、父なる神のみ業の完成の時の言葉です。 我が子でありながら神の子であるという理解に苦しみながらも、神に委ねて養い、育ててきた母マリアに、この地上の最後の時に語る言葉です。 果たすべき私の責任は、この十字架に架けられてすべての者のために命を捨てることである。 あなたの子は、この十字架に架けられて神のみ業を果たす者である。 この「人」の死の終わりから、新しい「神の業」が始まる。 新しい神の家や神の家族が与えられる。 母マリアは改めて、イエスから「婦人よ、ごらんなさい。 あなたの子です。」と、「あなたは間違いなくわたしの母です」と呼ばれています。 まもなく私はよみがえらされて、すべての人のために新しい命を分け与えることになる。 新しい神の家族が産まれることになる。 これから、あなたを母と呼んでくれる新しい子が与えられると、「愛する弟子」の方へ眼を向けさせたのです。 その愛弟子に、「見なさい。 これがあなたの母です。」と言われて、新しい神の家族をつくり出されたのです。 終わりの時が始まりの時でした。 イエスが自分の死を父なる神に委ねたその時から、新しい神の民の歩みが始まったのです。 マリアは、我が子を失うことによって十字架による新しい神の家族の恵みを知りました。 この身内への最後の言葉こそ、まさに神のみ業の完成を意味するものであったのです。 イエスの十字架の最後は、身内へのとりなしの祈りでした。 新しく築き直してくださる神の家族への祈りでした。 イエスはご自身の家族を自らつくり出すと宣言されて息を引き取られたのです。 私たちもまた、神の恵みが成し遂げられたと語る者に変えられるのです。 

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「主なる神が養う群れ」 列王記上17章8~16節

2017-10-22

 預言者エリヤに神のみ言葉が臨みました。 「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。 わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」 エリヤにそう告げさせた神は同時に、エリヤに「身を隠せ。 移り住め。」と次々に指示を出します。 「ヨルダン川の東にある川のほとりに身を隠せ。 その川を飲むがよい。 わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」 そして、その川の水もまた涸れてしまったなら、今度は「その場を立ち去って、シドンに行き、そこに住め。 わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」と言うのです。 エリヤは、神が言われた通りに従いました。 エリヤもまた、この干ばつや飢饉と決して例外ではありませんでした。 移り住んで来た町で、ひとりのやもめの「二本の薪を拾っていた姿」にエリヤは神の導きに気づくのです。 わずかな水、わずかな薪、一切れのパンでも貴重であったほどに、困窮を極めた干ばつや飢饉の状況でした。 やもめと言えば、当時の男社会の中では貧しい存在の象徴のようなものでした。 とても私を支え養う力はない。 そうであるのに、神はこのひとりの女性に私を巡り合わせ、養わせようとする。 このやもめもまた、神によって養われる存在であるとエリヤは直感したのです。 ですから、エリヤは丁寧にこの女性に話しかけています。 「器に少々水をもって来て、わたしに飲ませてください。 パンも一切れ、手に持って来てください。」 しかし、現実はエリヤの思った以上に厳しいものでした。 やもめは「わたしには焼いたパンなどありません。 ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。 わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。 わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」と告白したのでした。  
 エリヤは確信しています。 このやもめとその息子と分かち合うべきものが尽きる瞬間に、私が遣わされた。 生活の糧の極限状況であったそこに、神のみ言葉だけを携えるこの私が遣わされた。 人の力ではどうすることもできないところに陥っているこの私たちが、神の働きに今用いられようとしている。 エリヤはそう確信して続けて言います。 「恐れてはならない。 神は『地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく 瓶の油はなくならない』と言っている。 神はみ言葉通りに必ずなさる。」と、エリヤは注意深く神によって選び出された一人の女性に語ったのです。 エリヤは、神のみ言葉だけしか持っていなかったのです。 やもめは、最後の小麦粉と油しかもっていなかったのです。 神はそうしたところに働かれるのです。 そこでしか味わうことのできない神の恵みを二人は味わったのです。 「壺の粉は尽きることなく 瓶の油は無くならない」と神が言われた通りになった後に、このやもめはエリヤに「あなたの口にある神の言葉は真実です。」と告白しています。 考えてみてください。 エリヤに神が「移り住みなさい」と言われた場所はシドンでした。 偶像礼拝の町でした。 エリヤがなぜですかと問うてもおかしくない場所です。 しかし、その偶像の町、神なきところに住んで呻いているひと組の親子がいる。 異教の地の渇いた魂のために移り住んで、最後の一握りの食べ物を分かち合いなさいと神は言われたのです。 神の恵みは、私たちの想像をはるかに越えたものです。 エリヤが霊の糧によって養われるためでした。 同時に、このやもめの親子がエリヤによって神の恵みを受け取るためでした。 その奇跡とも思える恵みが、「地の面に雨を降らせる日まで」続いたというのです。 必要なものが、必要な時に与えられ続けたのです。 神は驚くべき場所を準備して、驚くべき人の組み合わせを用いて、ご自身の群れをつくり上げていかれるのです。 エリヤは、恵みによって自分が養われるだけでなく、神によって合わせられる人とともに、神の恵みを分かち合う人に変えられていったのです。

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「一緒にいるすべての者」 使徒言行録27章21~26節

2017-10-15

 パウロはエルサレムでの騒乱により罪を問われ、ローマ皇帝に直訴するために地中海の船旅によりローマに運ばれることになっていました。 パウロは自身の弁明のためではなく、ローマに行って福音を宣べ伝えるという使命に燃えていたのです。 パウロが乗っていた船には、276人が乗っていたと言います。 エジプトのアレクサンドリアの船であったと言いますから、ナイル川のデルタ地域の穀倉地帯から穀物を大量に運搬する船であったのでしょう。 その大きな船が「風に逆らって進むことができなかった。 流されるにまかせた。 積荷を海に捨て、船具さえも投げ捨てた。 太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた。」と言います。 船具を捨てるほどの、太陽や星を頼りにしていた当時の航海では漂流せざるをえないような嵐の中で、パウロは叫んでいます。 「元気を出しなさい。 十四日間もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。 だから、どうぞ何かを食べてください。」と人々を励ましています。 パウロは、ローマ皇帝の直属の兵士たちに捕らえられて護送されているだけの囚人です。 船の片隅にいた、何の力もない、自由を奪われた哀れな人に過ぎません。 パウロの言う「わたしの見るところでは、この航海は積荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と損失をもたらすことになります。」という忠告にだれひとり耳を貸さなかったのです。 そのパウロが、「わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。」と276人もの人々を励まし、ひとり恐れから解放されていたのはなぜでしょうか。 
パウロには「神の声」が聞えていたからです。 ローマに行って福音を語るというはっきりとした「祈り」が与えられていたからです。 自分の思いとはまったく逆の方向に進んでしまった船によって、災いと苦難の中に置かれてしまったと思わされる時にも、「恐れるな。 あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。 神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」という「神の声」を聴くことができた。 今、目の前で起きている試練や失望は、一時のことである。 終わりのあることである。 それが神のご計画であるなら、神のみ心であるなら、必ず神の働きがある。 このパウロの確信が、「船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。 それが、わたしが仕え、礼拝している神の言葉なのです。 わたしは神を信じています。 わたしに告げられたことは、その通りになります。必ずどこかの島に打ちあげられるはずです。」という言葉になったのです。 「祈り」と「使命」を与えられた人には、神の声が聞えてくるのです。 信仰をもって、希望をいただいて、神に依り頼む人には、神の声が臨むのです。 人の目には見えないその先が見えてくるのです。 希望を失ってしまっている人たちに、身の上や立場を越えて、神の声を大胆に語ることができるようになるのです。 力を失っている人たちに神の声を伝え、とりなしを求めることができるようになるのです。
 囚人パウロが、嵐の中で276人の人々の導き手となりました。 神を信じているから嵐や暴風を免れるわけではありません。 信仰者もまた、同じように嵐や暴風に出会います。 翻弄されます。 望みが断たれるようなことがあります。 しかし、信仰者は、神の時を待つことができます。 上陸に備えて、穀物の積荷を捨てることができます。 船を失っても動じません。 そのパウロに「一緒に航海しているすべての276人」が託されたのです。 この276人とはどのような人々であったでしょうか。 パウロの忠告に耳を貸さなかった乗客です。 途中で難破船から逃げ出そうとした船員たちです。 囚人が逃げ出すと自分たちの責任になることを恐れて、囚人たちを殺そうとした兵士たちです。 この混在した人たちすべてがパウロに託されたのです。 私たちにとって「276人」とはいったいだれでしょうか。 「嵐」とはいったい何でしょうか。 み言葉を与え、祈りを与え、導いてくださる、ともに歩んでくださるこのお方を「嵐の中」でも、「順風満帆な中」でも仰いで参りたい。 276人の救いが私たちに託されているのです。 

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「座っていたマタイ」 マタイによる福音書9章9~13節 

2017-10-08

 イエスは、ガリラヤの各地を回って精力的に宣教活動をされておられました。 次第に、その評判が高まっていました。 群衆が、イエスのもとに押し寄せてきたと記されています。 主イエスは、食事も、休息も、寝る間もなかったのではないでしょうか。 そのような中、慌ただしく次の町へと向かわれている時です。 イエスは通りすがりのひとりの人物に、目を留めておられるのです。 「収税所に座っているマタイ」という人物です。 繁栄を得ていたカファルナウムの町には、今でいう「通関税」という税金を取り立てる場所があったのでしょう。 イエスを追い求めて近づいてきたわけでもないし、その「収税所」に座って仕事をしているだけの人であったマタイに、イエスはなぜ目を留められたのでしょうか。 
 マタイはいつもと同じように仕事を繰り返していたのでしょう。 大変な評判になっていたイエスが通りがかるというのに、見向きもせず、仕事についてじっとしたのです。 イエスがそのそばを通り抜けようとしているのに、動こうともしなかったのです。 見に行こうともせず、目をイエスの方に向けようともしないで、ただ座っていたのでした。 そのマタイに、イエスは「わたしに従いなさい」と呼びかけられたのです。 「わたしについてきなさい。 わたしとともに歩みなさい。 生活をかけて、わたしに従いなさい。」 このイエスの呼びかけに従うためには、マタイはその「収税所」の場から立ち上がらなければイエスに従うことはできないのです。 古い生活から新しい生活に入るためには、その場から立ち上がらなければ新しい事は起きないのです。 イエスに声をかけられたマタイは、「立ち上がってイエスに従った」とあります。 それだけではありませんでした。 マタイは、そのイエスを自分の家に招いて一緒に食事をしている。 その食事の席に自分だけではなく、多くの「徴税人や罪人」を招いてイエスと共にある食卓を開いているのです。 当時では、食事を共にするということは、仲間であることを示す振る舞いです。 交わりです。 生活と人生を、この仲間と共にすると宣言しているようなものでした。 「徴税人や罪人」とは、社会から差別され、嘲けられ、疎んじられている人たちのことです。 そうした人々の食卓を、マタイが準備して、設けて、そこにイエスが同席しているということです。 当時のユダヤ社会では許されない振る舞いです。 律法破りの大胆な犯罪です。 案の定、ファリサイ派の人々がこのことをイエスと弟子たちに詰問します。 「なぜ、あなたたちは徴税人や罪人と一緒に食事をするのか。」 その時のイエスの答えが、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」というみ言葉であったのです。 
 イエスは、丈夫な人になってもらうために、丈夫な人にするために招いているのではありません。 正しい人になってもらうために、正しい人にするために招いているのでもありません。 排除され、差別され、交わりから漏れている人たちを、その弱さや罪深さをすべてご存知のうえで、赦して、憐れんで、病人のまま、罪人のままで招いてくださっているのです。 あるのは、ただ神の憐れみです。 条件など何もつけられることのない、神の恵みだけです。 私たちはそれを感謝して、喜んで受け取るだけです。 イエスを見向きもせず、ただ座っていた徴税人マタイが、イエスの呼びかけに立ち上がって、そのイエスを招いて主の食卓を一緒に囲んだのです。 この恵みを、それぞれのわずかな生涯の旅路の中で、「行って、体験して、学んで」いるのではないでしょうか。 このイエスの呼びかけを私たちは聴き損なってはなりません。 イエスは、「貧しい人々は幸いである。 神の国はあなたがたのものである。 わたしにつまずかない人は幸いである。」と言われています。 私たちは、このイエスの先立つまなざし、憐れみ、無条件の恵みを知ることです。

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「疑うことと信じること」 創世記17章15~21節

2017-10-01

 「子孫が豊かに与えられる」と、アブラハムが神の約束を受けてからすでに25年が経っています。 再び神が、「わたしは妻サラを祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。 わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。 諸国民の王となる者たちが彼女から出る。」と言われても、アブラハムは素直に神の言葉を聞くことができなかったのです。 ですから、妻サラの「主はわたしに子供を授けてくださいません。 どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。 わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。」という提案に、アブラハムは妥協し乗っかってしまったのです。 神の約束を待ち切れず、耐えかねて、浅はかな知恵によって動いてしまう人の姿です。 「またですか。 いつまで同じことを言われるのですか。 何年経っているのですか。 待って、待って、もう待ちくたびれました。 事態は何一つ変わっていないではないですか。」と、アブラハムがつぶやいてもおかしくない時です。 アブラハムは、「百歳の男に子供が生まれるだろうか。 九十歳の妻サラに子供が産めるだろうか。」と、心の中でつぶやいています。 ひそかに笑っています。 ですから妻サラの説得に応じて、女召使ハガルによってイシュマエルという子どもを得たのです。 アブラハムもサラも心の中で満足はしていなかったけれども、これが神の約束である、祝福であると納得していたのです。 「もうイシュマエルで十分です。 主よどうか、イシュマエルが生き永らえるように」と願ったのです。 このアブラハムの祈りに、主は「いや違う。 あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。」とアブラハムを呼び戻したのです。 
 神の約束を信じ続けることの難しさが、このアブラハムの姿に映し出されています。 神が与えようとしておられる大きな恵みをアブラハムは信じることができず、自分で納得できる、信じることのできる目に見える小さな恵みに変えてしまう。 本当に、信仰は疑うことと裏腹であるように感じます。 疑うことがあるからこそ、信じることが起こされるのではないでしょうか。 神の存在など気づこうともしないところでは神を疑うことなどありません。 信じることもあり得ません。 アブラハムは神のみ言葉を信じて歩み出したからこそ、疑うようになったのです。 私たちは信じることと疑うことのはざまを行ったり来たりしています。 そんな私たちをすべて主がご存じで、「いや違う」と揺れ動く私たちをもう一度信じなさいと呼び戻してくださっているのではないでしょうか。 私たちが何かを見つけたから、何かが分かったから、何かをしたから信じることができるようになったのではないでしょう。 主が何度も声をかけてくださって呼び戻してくださったから、再び信じる者へと変えられたのではないでしょうか。 そこには神の時、神のやり方、神の意図があるのです。 ここで忘れてはならないことは、誤ったアブラハムの願い、「イシュマエルが生き永らえますように」という願いもまた聞き入れられたという事実です。 イシュマエルは、アブラハムとサラの不信仰の結果のような存在であると言えます。 神が祝福の約束をしているサラの子イサクの邪魔となる存在であるとも言えます。 しかし主は、過ちを犯したアブラハムとサラも、その過ちの結果とも言えるイシュマエルもその母ハガルも祝福するのです。 神の手のひらにすべて刻みつけると言うのです。 この世に生まれ出てくるものには、命が与えられている限りすべて神の意思に基づいている。 神の恵みの内にある。 何一つ捨て去るものはないのです。 私たちの目には祝福されていないように見えていても、何にも用いられていないまま放置されているかのように見えても、邪魔になっているかのように思えても、すべて神の手のひらに刻まれたものなのです。 アブラハムとサラの不始末が贖われて呼び戻されたように、祝福されるのです。 このアブラハムの神、イサクの神の系図の果てに、イエス・キリストの誕生があるのです。

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「泣いたペトロが語る神の真実」 マルコによる福音書14章66~72節

2017-09-24

 ユダヤの大祭司やローマ総督の前であろうが、嘲る人々や兵士たちの前であろうが、周囲が敵だらけのところで、命がけで真実を貫いたイエスでした。 まさに主イエスの戦いの真っ最中の時です。 イエスが大祭司の尋問を受けているそのような時に、ペトロはその大祭司の館の中庭にいたというのです。 主イエスが剣や棒で囚われた時に、弟子たちはイエスを見捨てて、皆、逃げてしまったはずです。 そんなところに、ペトロだけが、のこのこと入り込んでいたのです。 居合わせた人々と火にあたって、たわいもない会話をしていたのでしょう。 かつて、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことは知らないなどとは決して申しません」と、勇敢に語っていたペトロの姿ではありませんでした。 イエスの弟子であることを隠して、大祭司の中庭に居る人々に溶け込んで装っていたペトロでした。 そのペトロに向けて、不意の言葉がかけられました。 「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」という、大祭司に仕える女中の言葉でした。 最初は、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からない。見当もつかない。」と受け流した。 とぼけてその場を繕って、何気なく中庭の出口の方に逃げて行く。 女中はそれを許さない。 「この人は、あの人たちの仲間です。」と、今度は周囲の人たちに叫ぶ。 いよいよ追い詰められたペトロが言い訳をすればするほど、墓穴を掘ります。 慌てたペトロの言葉に、ガリラヤの匂いがしたのでしょう。 「確かに、お前はあの連中の仲間だ。 ガリラヤの者だから。」 ついにペトロは逃げ場を失って、「あなたがたの言っているそんな人は知らない。」と誓い始めたのです。 
 私たちを試みる力は、私たちが油断している時に何気なく近寄ってきます。 巧みに私たちを落とし込んでいきます。 気がついたら、深みにはまって身動きができないまでになってしまう。 ですから、小さな綻びを軽んじてはなりません。 ペトロは何を間違ったのでしょうか。 ペトロはイエスの「鶏が二度泣く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」という言葉を思い出して、いきなり泣いたとあります。 真実を貫くことができなかった自分の弱さ、その場かぎりに虚ろってしまう自分の愚かさに泣いたのでしょうか。 そうではありません。 ペトロほど、イエスに直接教えられた弟子はいないはずです。 まざまざとイエスの業を目の当たりにした弟子はいないはずです。 自らもイエスの名によって力ある業をなすことができた人物です。 そのペトロが、切羽詰まってイエスと関わりがないように生きようとしてしまった。 装って、繕って、嘘をついて、綻び始めると逃げ出そうとした、その自分の本当の姿を見つめさせられたのです。 試みに出会った人間の真の姿です。 イエスの言われた通りになってしまった。 自分が決意表明したものは一瞬のうちに崩れ落ちてしまった。破れ果てて、途方に暮れて、立ちすくんでしまって、思わずとんでもない言葉を吐いてしまった。 心の奥底にあった自分の罪がえぐり出されてしまった。 その自分の姿を、今、十字架にかけられようとしているイエスが変わらずじっと見つめておられた。 浅はかで愚かなこの自分を、すでに主イエスはすべてご存じであった。 そのまなざしに、変わらない憐れみを見ることができたのです。 「わたしを知らないと言うであろう」という言葉を思い出し、その中に憐れみを見出すことができたのです。 今、主イエスがかかってくださっているこの十字架は、私のためであった。 裏切ったこの私が一緒になって、この十字架の裁きに加担したものであったと気づかされたのです。 この自分が犯してしまった取り返しのつかない、恥ずかしい出来事を、後に、ペトロ自らが語り出したのです。 
 すべての弟子が、イエスのもとに戻ってきたわけではありません。 ペトロは自分の愚かさや弱さを乗り越えて、十字架に自らつかれたイエスの愛と真実に飛び込んで帰ってきたのです。 その立ち帰ったペトロを、イエスが再び立ち上がらせてくださったのです。 これが「よみがえりの力」です。

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「弱さの中にある恵みの力」 コリントの信徒への手紙二12章9~10節

2017-09-17

 パウロは、「わたしの身に一つのとげが与えられました」と言います。 この「とげ」とは何であったのでしょうか。 聖書は何も語っていません。 体質的な持病であったかもしれない。 度重なる投獄や鞭打ちによって傷つけられた苦痛であったかもしれない。 激しく攻撃してくる人たちの妨害そのものを指しているのかもしれない。 パウロは、その「とげ」を「サタンから送られた使い」とまで言います。 「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。」と言います。 その繰り返された祈りの中で迫った主イエスの言葉が、「わたしの恵みはあなたに十分である。 力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」というみ言葉でした。 
 パウロの語る「とげ」とは、自分の「弱さ」のことでした。 ですからパウロは、この肉体に与えられた一つの「とげ」が取り除かれるように、この弱さが取り除かれるようにと何度も祈ったのです。 私たちが病気であるなら健康を願うでしょう。 災難や災害があるなら平穏無事を望むでしょう。 乏しさがあるなら豊かさを追い求めるでしょう。 しかし、パウロが自分の為に健康や平穏や豊かさを、何度も繰り返し祈り願ったとは到底思えない。 すさまじい苦難の生涯を送ったパウロです。 福音を宣べ伝えるために、手紙を書き、足を運び、祈り続けているコリントの教会を取り戻すために、この肉体のとげが自分の身から取り除かれること、弱さを克服することを心から願ったのではないでしょうか。 
 「わたしの恵みはあなたに十分である。 力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」というイエスのみ言葉こそ、パウロが何度も繰り返された祈りの中で与えられたものです。 パウロの祈りは、確かにすぐには答えの出ない祈りでした。「聞かれざる祈り」でした。 しかし、その時に、パウロはイエスのこのみ言葉を聞くことができたのです。 パウロの祈る「祈り」は、聞き入れられなかったのではない。 「わたしの恵みが十分に発揮される」その「とげ」は、その「弱さ」は十分であるとパウロの祈りは聞かれたのです。 ですから、パウロは、「キリストの力が私に宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」と、再び立ち上がったのです。 「キリストのためならば、弱さと侮辱と危機と迫害と行き詰まりとに甘んじよう。」と語ることができたのです。 本当の強さは、弱さのところに働く。 そこに、キリストの力が宿るからです。 もう何もすることができないとまったく無力となってただ主にすがる以外にどうしようもないところに、主の恵みが働くとパウロは語っているのです。 
 私たちはだれしも、弱さと強さをもっています。 しかし、私たちは力を誇り、強さを求めます。 弱さを恥じて、その弱さを隠そうとします。 しかし、パウロは違うと言います。 主イエスは、飼い葉おけの中に小さな存在として生まれた。 その生涯においては、病いに苦しむ者、虐げられている者、自分一人では何もできない者のそばに寄り添って、その弱さを担って交わりをされた。 そして、最後は、権力と妬みと侮辱の中を黙って、自ら進んで十字架の上で死なれたのです。 主イエスはご自身の弱さのうえに、父なる神の力が働かれることに身を委ねたのだと言っているのです。 私たちが誇っている弱さなど、たかが知れています。 自分の能力や努力に頼っている限り、自分の力以上のものを発揮することはできないでしょう。 自分が思い描く以上のことにはならないでしょう。 しかし、自分が消えてなくなり、そこにキリストの力が宿るなら、話しは別です。 もし、キリストの力がそこに宿るなら、キリストの恵みが発揮される。 恵みが十分に満たされる。 そこで、主イエスが私たちを用いてくださるとパウロは言うのです。  

   

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「夜明けの食事」 ヨハネによる福音書21章9~14節

2017-09-10

 生涯をかけて従ってきたイエスが十字架によって処刑され、目的を失ってしまった弟子たちでした。 最後には、そのイエスを裏切って、見捨てて、逃げ出してしまった弟子たちでした。 その後ろめたさと相俟って弟子たちは、虚しさの中に漂っていたのでしょう。 ペトロたちの故郷であったガリラヤ湖で漁をしていたというのです。 いなくなった、死んでしまったと思われたイエスが、この虚ろな弟子たちの前に何度か現れて、「あなたがたは、すべての民をわたしの弟子にしなさい。 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と励まされた弟子たちのはずでした。 漁師経験の豊富なペトロが「わたしは漁に行く」と呼びかけて、他の弟子たちが「わたしたちも一緒に行こう」と応じたその日の「夜の漁」でした。 「何も獲れなかった」夜でした。 経験を生かして様々な方策を試してみたが、その夜は一匹の魚も獲れなかったのです。 その様子を、よみがえられたイエスが岸辺に立って一部始終を一晩中ご覧になっていたというのです。 そのイエスが、「子たちよ、何か食べるものはあるか。」と尋ねた。 「何もありません」という弟子たちの叫びに、「舟の右側に網を打ちなさい」と言われた。 何度もお会いしているイエスを目を凝らして見れば、耳を凝らせて聞けば分かるはずの距離であるのに、弟子たちはそれが主イエスであるとは分からなかった。 言われた通りに網を打ってみると、網を引き上げることができないくらいの大漁となったと言います。   
 イエスは、ペトロたちを「人間をとる漁師になる」と言われて、弟子として召し集められました。 この「夜の漁」とは、いったい何でしょうか。 虚しさの中でただ日常生活に漂う弟子たちの姿を表しているのかもしれません。 先の見えない暗闇のなかにあった弟子たちが「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」とイエスに命じられて、恐れと戸惑いとためらいを携えながら、自分たちなりに懸命に取り組んでいた宣教の姿であったのかもしれません。 その弟子たちに、「舟の右側に網を打ちなさい」とイエスは呼びかけられたのです。 聖書の言う「右側」とは、神の側ということです。 人の思いの側ではなく、神のみ心の側です。 人や自分が喜ぶ側でなく、神が喜ばれる側です。 そこに目や耳や力を傾けなさいと、イエスは呼びかけられたのです。 先が見えない、惨めな結果にもがき苦しんでいる弟子たちであったのでしょう。絶望と失意のなかに歩み始めた弱々しい弟子たちであったのでしょう。 イエスは、その一部始終を一晩中、ずっと見ておられたのです。 ふさわしい言葉をかけて、呼びかけてくださったのです。 網を引き上げることができないくらいの「大漁のしるし」まで与えてくださったのです。 それだけではない。 イエスは炭火を起こして、その上に魚を乗せて、パンまでも用意し、たった今与えられた恵みの魚まで持って来させて、食事の用意をし、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と、虚しく夜の湖を漂っていた弟子たちを招いてくださったのです。 ですから、私たちの生涯は虚しいものではありません。 その恵みと憐れみを知る力がなかっただけです。 神のみ心を深く知る、神の力と知恵を求める祈りがなかったからです。 私たちにとって、どのような忌まわしいことが起きたとしても、どんな素晴らしい出来事があったとしても、それは神のみ心によって為された神の恵みです。 それが失敗に見えたとしても、成功に見えたとしても、 深くて長いご計画の中にある神の業です。 先の見えない「死」という終りに向かって漂っている生涯から、新しい命を与えられ新しい道を歩む生涯へと「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招いてくださっているのです。 イエスの復活は、十字架の終着点ではありません。 弟子たち、私たちが「夜明けの食事」に招かれ、養われ、遣わされていく、新しい命の生涯の始まりです。 イエスに替わって、闇に覆われている遣わされた所で福音を宣べ伝える新しい出発点です。

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