先週の聖書研究・祈祷会の恵みから
聖書 使徒言行録16章16~40節
*パウロの宣教は、マケドニア州の都市フィリピに入って行きます。 そこで、占いの霊に取りつかれた女奴隷が、パウロのイエス・キリストの名による叫びによって解放されます。 そのことで言われなき訴えを受け投獄されたパウロたちは、鞭で打たれ、厳重に見張られた牢にがんじがらめにされます。 しかし、そのような最悪の状態と思われるところでこそ、福音の力が働きます。
*一番奥にある牢に入れられたパウロたちは、賛美の歌を歌って神に祈っている。 他の囚人たちは、これに聞き入っている。 牢の戸がみな開く。 すべての囚人の鎖も外れる。 囚人たちだれ一人として、その場から離れようともしない。 一瞬にして、すべてのものが解放される状況になった。 牢の看守とその家族までもが救われた。 ローマ市民権をもっていたパウロたちは、牢に入る言われはなかった。 しかし、フィリピでの教会の誕生のために不可欠なパウロたちの働き、福音の導きであったのです。
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聖書 使徒言行録15章36節~16章10節
*「教会の外部」から起こった問題を、イエスの恵みによる救いの信仰によって克服したアンティオキア教会でしたが、今度は、「教会の内部」から問題が起こってきます。 今まで行動をともにしてきたパウロとバルナバに、熱心さから対立が起こります。 しかし、神はこの対立を通して、パウロはシラスとともに、またバルナバはマルコとともに、それぞれを遣わします。
*しかし、パウロ自身が描いていた宣教の計画が二度にわたって聖霊によって閉ざされます。 私たちが言う「聖霊に導かれる」ことの中には、このように聖霊に閉ざされることも含まれているのです。 むしろ、私たちが閉ざされている時こそ、神の働かれている時です。 パウロの沈黙の時は、神の働きの時でした。 人間の計画が崩れる時、神の計画が始まる時です。 この神の計画が成った時こそ、私たちが用いられるのです。 この時に「私たちを助けてください」という祈りが与えられるのです。
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聖書 使徒言行録15章1~21節
*アンティオキアの教会に問題が起こります。 問題をあいまいにすることもなく、エルサレムで問題を協議するために、教会は代表者を送り出したのです。 キリスト教会始まって以来の大きな協議となりました。 救われるために、ユダヤの宗教儀礼の行いが必要であるのかどうかが問われました。
*ペトロは、神がユダヤ人にも異邦人にも同じように、宗教儀礼がなくとも、イエスの恵みによって、信仰によって救われたことを体験から語りました。 「負いきれなかった軛」を異邦人の首に、なぜ懸けるのかと、イエスの言う「負いやすい軛」を説いたのです。 エルサレム教会の中心人物であったヤコブも、旧約聖書を引用して、「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはならない」と、「主を呼び求める異邦人」の信仰による救いを結論付けたのです。
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聖書 使徒言行録14章8~20節
*まだ一度も歩いたことのない足の不自由な男は、パウロが語る言葉をじっと聞いていた。 この男は、諦めていなかった。 望みを持ち続ける意志を失っていなかった。 宿命に立ち向かう意志という「いやされるにふさわしい信仰」が、神の恵みにより与えられていたのです。 難を逃れて来たパウロという福音を「宣べ伝える者」が、「いやされるにふさわしい信仰」が用意された「聞く者」のところに遣わされたのです。 信仰は、聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
*執拗に追いかけてきたユダヤ人たちによって、パウロは石を投げつけられた。 しかし、死んだと思われたパウロが弟子たちに取り囲まれると、再び「起き上がって町に入って行った」とあります。 キリスト者は、弱く打ち倒される者です。 しかし、同じキリスト者によって取り囲まれて励まされる存在です。 そして、主イエスのみ手によって抱きかかえられて、再び起こされるのです。
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聖書 使徒言行録13章1~12節
*アンティオキア教会には、違いを越えて様々な指導者がいました。 その中に、キリスト者を迫害する指導的立場にいたサウロ、バプテスマを斬首したヘロデ・アンティパス王の関係者であったマナエン、キプロス島出身のバルナバなどが、アンティオキア教会という一つの所に集められていたことが驚きです。
*その彼らが、「主を礼拝し、断食し、祈っている」のです。 聖霊が働かれることを待ち望みつつ、神が「前もって決めておいた仕事に当たらせるために」、教会の祈りによって、バルナバとサウロを祝福の按手によって送り出そうとするのです。 このバルナバとサウロの宣教旅行が、神の命令である、教会の業であるとルカは主張しているのです。 船出したキプロス島で、偽預言者によって取り入られたこの地の地方総督に出会います。 この地方総督は、サウロの語る「主の教えに非常に驚き、信仰に入った」と言います。 一人のローマの高官のためにも、二人が教会の祈りによって送り出されたのです。
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聖書 使徒言行録12章1~19節
*いよいよ、エルサレムにいる12使徒たちにも迫害が迫ってきました。 ヘロデ王は、ヤコブを殺したことにユダヤ人たちが喜んだのを見て、ペトロまでも捕らえたのです。 ところが、厳重に警護していた筈の牢に奇跡が起こります。 主の天使が「急いで起き上がりなさい」「帯を締め、履物を履きなさい」「上着を着て、ついてきなさい」と、ペトロに次々に声をかけ救い出したのです。
*教会では、ペトロのために熱心に祈りがささげられていました。 救い出されたペトロが戻ってきた時にも、教会は祈りを止めていなかったのです。 神は、天の使いを送り、「奉仕する霊」「仕えるために遣わされた霊」「周りに陣を敷き守り助ける者」として、具体的に人を通して現れてくださるのです。
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聖書 使徒言行録11章19~29節
*エルサレム教会は、バルナバをアンティオキアに遣わします。 バルナバがそこで見たものは、「神の恵みが与えられた有様」でした。 バルナバは、そのことを喜び、「固い決意をもって主から離れることのないようにと勧め、励ましたのです。
*そして、自分の故郷に戻っていたサウロを、アンティオキアに招いたのです。 バルナバは、ギリシャの思想や歴史や文化に精通していたサウロを見抜き、殉教をも恐れず目覚ましい働きをしていた姿を知っていたのです。 バルナバは、人々が過去を見つめて恐れていたサウロを、新しく生まれ変わったサウロとして、アンティオキアの教会に招いたのです。 このアンテイオキアで、弟子たちが初めて「キリスト者」と呼ばれるようになったと聖書に書かれています。
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聖書 使徒言行録11章1~18節
*異邦人の地で、異邦人のままで、神を信じて聖霊が降ったという知らせがエルサレムにも届いてきました。
当時のユダヤでは想像することのできないほどの衝撃でした。 そのことを目撃したペトロは、神がなさっ た事実だけで「事の次第を順序正しく説明し始めた」とあります。
*同じ幻によって、異邦人コルネリウスとユダヤ人ペトロが引き合わされます。 神のみことばが、この異邦 人とその家族や友人たちに語られるために、ペトロは導かれます。 コルネリウスは、神がわざわざ差し出 してくださった霊の賜物を受け入れた。 先に霊の賜物が降ったペトロは、そのことを共に喜んで神に讃美 した。 このことを皮切りに、ユダヤ人から異邦人へ、ユダヤから全世界へと宣教が広まって行った。 分 け隔てなく、すべての人が神のみことばを受け入れて救われることを、神は待っておられることを私たちは 知ったのです。
*私たちは、神がなさってくださったことを、神への祈りと交わりと信頼によって正しく受けとめているだ ろうか。 恐れず広く語っているだろうか。 神が分け隔てなくなさってくださった事実を、共に喜んでい るだろうかと、私たちが問われています。
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聖書 使徒言行録9章1~19節
*エルサレムから200キロ以上離れているダマスコにまで手を伸ばし、イエスの弟子たちを脅迫し殺そうと意気込んだサウロに、天からの光が周りを照らします。 サウロは、地に倒れ、目も見えなくなり、人の手を借りなければ歩いて行くこともできなくなった。 三日間、目も見えず、食べも飲みもしなかった。
*サウロは、「わたしが、あなたが迫害しているイエスである」というイエスの声を聞きます。 そして「起きて町に入れ、そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」と、裁くためではなく恵みに与からせるためのイエスの声に促されます。 この盲目の、断食の三日間に、サウロは、「祈っている」のです。 「幻を見て」アナニアという人物を待ち望むのです。 アナニアはイエスに遣わされて、最大の敵であった、不安の念を拭いきれなかったサウロに、「兄弟サウル」と呼びかけたのです。
*サウロのバプテスマが、天からの光に導かれて、復活の主と出会い、祈り、幻を見て、見えるようになったその仕上げとしてなされています。 そして、サウロは主の食事へと招かれているのです。
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聖書 使徒言行録7章54節~8章3節
*ステファノは、激しく憎しみをあらわにしてくる人々におかまいなく、「天を見つめていた」のです。 すべて八方ふさがりのような時でも、天は開いているのです。 私たちは、天を見上げて仰ぐことが赦されているのです。 目の前のものから、まったく自由なのです。
*ステファノは死の恐れが迫っている時でも、「あの復活したナザレの人イエスが、神の右に立っておられるのが見える」と、自分自身の証言の言葉を失いませんでした。 そして、主に呼びかけて祈ります。 「主よ、わたしの霊をお受けください」と、イエスの名を呼んで委ねる祈りをささげます。 そして、主の前にひざまずいて祈ります。 「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と、石を投げつけている人のために祈ります。 主の前では、すべての人が罪人です。 ステファノの最後の姿は、イエスの十字架の前にひざまずいて、すべてを受け入れてイエスに委ねた祈りの姿でした。
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