先週の聖書研究・祈祷会の恵みから
2013-06-06
聖書 マルコによる福音書1章1~25節
*マルコによる福音書の書き始めは、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」となってい
ます。 その中心は、間違いなくイエスです。 イエスの誕生を、ひとつの出来事としてではなく、大き
な歴史の流れとして見ようと意図しています。 イエス・キリストによって、旧約聖書と新約聖書が一つ
の線として繋がります。 新約聖書が、旧約聖書の完成として記されているのです。
*この系図には、4人の女性が組み入れられています。 タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻(バト・シェバ)です。 それぞれが、異邦人であったり、不倫の罪を犯したり、遊女であったりします。 当時の社会では、女性がこのように組み入れられること自体が異例です。 また、大失敗をしたアブラハムやダビデも、まったく無名の者も刻まれ、包み隠さず系図に含めています。 系図は、すべての取るに足りない者、滅ぶべき者を受けて、イエスがお生まれになったと語ります。 すべての失敗や恥や弱さを引き受けて、イエスがお生まれになった。 そのためにイエスが遣わされたと系図が語っているのです。
*「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。 その名は、インマヌエルと呼ばれる。」と預言されています。 「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたとともにいる。」 マタイによる福音書は、この信仰で貫かれています。
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