牧師館より 2014. 4. 27
2014-04-27
# 「キリスト教保育」という冊子の中に、こんな記事がありました。 子どもたちがプランターに植え、一生懸命に育てた「いちご」の収穫の時期を、いよいよ迎えました。 自分たちが育てたいちごが食べられるという楽しみに胸をふくらませていました。 ところが、3つしか「いちご」の実がならなかった。 27人の子どもたちと3つの「いちご」の実、どうしようとみんなが考え始めました。 なかなか答えがでませんでした。 翌日、やっと「いちごジャムにしたら、みんなが食べられるかもしれない」という意見が出てきました。 一人分は、ほんの少しのものですが、それでも子どもたちは大喜びで何とも幸せそうだったという記事でした。 私たちの幼稚園でも、同じように3~4個の「いちご」を20人で、少しずつスライスして分け合ったことがあったというのです。 それぞれが薄く、ほんのわずかでも、「いちご」の香りがして、とてもおいしく喜び合ったというのです。 ある方が、アフリカの小さな村で出会った子どもたちの姿をお話ししてくださったことを、ふと思い起こしました。 ひとつの飴をあげると、それを村中の子どもたちが少しずつなめては、次のこどもに飴を渡していく光景に出くわしたと言います。 それ以来、この方はこの村への支援をライフワークとされておられます。 限られた実りを、分かち合っていく。 その実りがわずかでも、分かち合うことによって更においしくもなる。 みんなで分かち合う喜びがある。 その姿を、子どもたちに教えられたように思います。 (牧師 村上悦二)#
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