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「先を見ておられる十字架の主」 マルコによる福音書14章66~72節

2023-04-02

 イエスが逮捕され、裁判手続きに入る場面を見ますと、イエスは十字架に処刑されるに際して、ローマ総督ピラトの法廷とユダヤの最高法院の裁判手続きを受けています。 最終的には、ローマの法律によって死刑判決を受け、ローマへの反乱を企てた者として処刑されます。 その前に、ユダヤの律法によって死に値する異端者として裁かれるのです。 ユダヤの最高法院の裁判の前に、大祭司による予審手続きがあったようです。 権力者が皆、大祭司の館に集まり、イエスに対する不利な証言を持ち寄って裁こうとします。 一致した証言がなかなか得られず、立証には不十分であったのでしょう。 ユダヤを代表する大祭司とイエスふたりが、祭司長、律法学者、長老たちが取り囲む中で対峙します。 大祭司は、「何も答えないのか。 この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」と、弁解の機会を与えようとします。 これにイエスは沈黙を続けます。 イエスは、イザヤ書が「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。」という預言により、父なる神のみ心、定めとすでにご自身の死を受け入れているのです。 これにしびれを切らした大祭司が、「お前はほむべき方の子、メシアなのか。」と問い質します。 「ほむべき方の子」とは神の子、「メシア」とは神から油注がれた者、イスラエルを解放する者ということです。 「神の子」と答えれば、神と同等の者とする神を冒涜する者となる。 「メシア」と答えれば、ローマへ反乱を企てる者となるのです。 この大祭司の問いに、沈黙を破って答えたイエスの唯一の言葉が、「そうです。 わたしはある。 わたしはあるという者だ。」と答えたのでした。 イスラエルの民に、神の啓示としてずっと神ご自身が答え続けてこられた言葉です。 「わたしのいるところに父なる神は現れる。 そこに神は共におられることになる。」とイエスは答えられて、更に「全能の神の右に座ることになる。」と答えたものですから、これが決定的な神を汚す言葉となり、取り囲む権力者たち全員がその証人となったのでした。 ついに、アブラハムの信仰により選ばれたイスラエルの民、モーセを通して律法を神より直接授かったイスラエルの民が、その神の子であるイエスの命を狙い、策略し、裁判にかけ、死に至らせた十字架の出来事が果たされたのでした。 人が神を裁く、神が人によって死刑判決を受ける。 この取り返しのつかない過ちを起こしてしまった出来事に、今日の私たちにもこの場面に身を置くようにとマルコの福音書は強く求めているのではないでしょうか。 この隠されていた奥義のイエスの告白は、大祭司の館の中で告げられたのです。 ペトロは、その館の中庭に、「イエスの後を追って、恐れながら従っていた。」のです。 そこにいた人々に気づかれて、「あなたも、あのイエスと一緒にいた。 あの人たちの仲間です。」とペトロは問われて、イエスが予告した通り不意をつかれ「そんな人は知らない」と三度まで否定しまったのでした。 逃げ去ってしまった弟子たちには起こり得なかった出来事です。 大祭司の中庭にまで入って来なければ、吐き出すことのなかった否定の言葉です。 イエスはすべてを承知のうえで、すぐ近くの中庭にいるペトロにも、また逃げ去ってしまった弟子たちにも向けて、大祭司に堂々と「わたしのいる所に父なる神は現れる。 そこに神は共におられる。」と口を開いたのではないでしょうか。 ペトロは、「イエスが言われた言葉を思い出し泣き続けた。」と言います。 生涯背負ったであろうペトロの砕かれた悔い改めの姿がここにあります。 ぼろぼろになったペトロに、その姿を先んじて知っておられたイエスが、館の中と外の違いはあれ同じ場所で、「わたしの羊を飼いなさい」と少し先をご覧になって用いようとされて、沈黙を破って語られたのではないでしょうか。



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