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「交わりを回復するために」 マルコによる福音書7章31~37節

2023-01-15

 イエスたちの群れは、「ティルスの地方、シドンを経て、デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖にやって来られた。」と言います。 聖書地図に従って、その足取りを眺めてみますと、回り道をし、山脈を越え、ユダヤ人たちが住むガリラヤ地方の反対側、ガリラヤ湖の東側の異邦人の地を訪れたことになります。 どこか目的地があって、そこを目指したのではなく、迂回し、無駄な回り道を異邦人の地において繰り返しているのです。 ユダヤ教指導者たちも、ガリラヤの領主であるヘロデ・アンティパスも、イエスたちを秩序を乱す者として捕らえ排斥しようとしていたのです。 身の危険を避けるため、異邦人の地を巡り歩く苦痛の旅であったのでしょう。 しかし、異邦人たちは、「イエスの癒しの業を見て驚き、イスラエルの神を賛美した。」と言います。 イエスがこの地に足を踏み入れたと聞いて、「耳が聞こえず舌の回らない人」を、イエスのもとに連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願ったのでした。 その時になされたイエスの振る舞いです。 「この人だけを群衆から連れ出した。 指をその人の両耳に差し入れた。 唾をつけてその舌に触れられた。 天を仰いだ。 深く息をついた。 そして、その人に向かって『エッファタ』(アラム語で開け)と言われた。」と言うのです。 ユダヤ人は、イスラエルの神の民ではない異邦人たちを見下し、決して交わろうとしない大きな隔てがあった時代です。 忍びながら旅を続けていた異邦人の地での苦痛の旅の途中です。 イエスは、このような息苦しい旅の途中でも、ひとりの「耳が聞こえず舌の回らない人」と出会われるのです。 イエスはご自身と向き合わせるようにと、二人きりとなるようにされるのです。 連れて来られた人は、自ら望んでイエスのもとにきたのではありません。 人任せの心の閉ざされた人であったのでしょう。 二人きりになると、イエスは先ずご自身の呼びかけが聞こえるようにと、直接痛んでいる両耳に触れられるのです。 癒された耳を通して聞き届けられたイエスのみ言葉に、その人が応えて語ることができるようにと、口と舌に直接触れられるのです。 イエスご自身がこの人の痛みや苦しみや悲しみをご自分のものとされたということです。 イザヤが預言した「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。 口の利けなかった人が喜び歌う。 荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。」(イザヤ35:35-6)という預言が、今ここで成し遂げられたとマルコは証しするのです。 イエスは触れられただけでなく、「天を仰いだ。 深くため息をついた。 その人に向けて開けと叫ばれた。」と言います。 「天を仰ぐ」とは、命の源である父なる神に向けて祈るイエスの姿です。 私たちと同じように肉体の弱さを背負わされたイエスは、父なる神のもとから注がれる力と命を受けるためには祈るしかないのです。 「深く息をつく」とは、「呻く」という意味合いの言葉です。 心の閉ざされた人に替わって、その人の痛みも悲しみも憂いも知る者として、共に呻いて祈って執り成してくださったのです。 「エッファタ」という言葉は、マルコにはしっかりと耳に残ったイエスの肉声です。 このみ言葉が語られたとき、その人の「耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」と言います。 この「耳が聞こえず舌の回らない人」とはだれのことでしょうか。 聞くべきものを聞かず、語るべきものを語らず、自分の身を守ることだけに専念する私たちの姿ではないでしょうか。 イエスは祈る術を知らない私たちに替わって、執り成し呻いて祈ってくださっているのです。 身体の癒しだけでない、私たちと神との交わり、私たちと隣人との交わりが回復されるという神の恵みの働きが起こるとマルコは証しするのです。 



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