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「いま、ここに生かされる」 マタイによる福音書2章13~15節

2023-01-01

 マタイによる福音書2章には、ユダヤ領主ヘロデ王、東方の国からやってきた占星術の学者たち、ヨセフとマリアが登場します。 ヘロデ王が、占星術の学者たちから嫌な知らせを聞くのです。 彼は貪欲な権力者で、自身の地位を守るためであるなら家族である妻や息子さえも殺してしまう残忍な人物です。 「ユダヤに新しい王がお生まれになった。」と聞かされ、その子を探していち早く始末しようと企んでも不思議ではないでしょう。 ヘロデは学者たちに、「行って、生まれると言われているその子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。 わたしも拝もう。」と言い、本心を隠し人を操り企てを果たそうとするのです。 神のお告げによって、命じられていた学者たちがヘロデのもとに帰らず、別の道を通って自分たちの国に帰っていったことをヘロデは知って大いに怒ります。 「学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」と言うのです。 クリスマスの喜びの出来事の背後に、このような悲劇が起こされていたとマタイは語るのです。 この学者たちをここまで導いてきた「星」は、最後まできちんと「飼い葉桶の中に置かれた乳飲み子」の所にまで導いています。 なのに、なぜ学者たちはヘロデ王のいる宮殿に寄り道をしたのでしょうか。 話さなくてもよいことをヘロデに伝えてしまったのでしょうか。 その落とし穴によって、罪のない幼子たちが巻き添えをくらって殺されてしまった。 マリアとヨセフもまた故郷を離れなくてはならなくなったのです。 私たちの中にも、ヘロデ王の思いがあるでしょう。 学者たちのような配慮に欠けた振る舞いをすることもあるでしょう。 疑うことも、信じることもあり揺れ動くのです。 これらのことのためにも、イエス・キリストはこの「暗闇」を照らす「光」としてもうすでに乳飲み子の時から始まっているとマタイに教えられるのです。 その一方で、ヨセフの沈黙の姿をマタイは語ります。 ヨセフは、婚約中のマリアを、社会からの侮辱に晒さないよう自らの知恵によって救い出そうとします。 共に生きていく家族という存在の中に、まったくコントロールの効かない存在としてイエスを黙って迎え入れます。 学者たちが去って行った後も、黙って神の呼びかけに耳を傾けようとします。 「起きなさい。 故郷を捨てて、エジプトに逃げなさい。 幼子イエスとマリアを引き連れて行きなさい。 神が告げられるまで、そのエジプトに留まっていなさい。」と命じられるのです。 イエスを迎え入れたばかりに、マリアとヨセフの二人の生活は激変し、根底から覆される。 これがイエス・キリストとの出会いであったと言うのです。 ヨセフはその時々に懸命に考え、悩み、嘆き、苦しみ、それでも神の呼びかけに従った。 このヨセフの沈黙の姿こそ、「神の救いのご計画に用いられた」のではないでしょうか。 私たちの歴史は、神のご計画に従って進みます。 イエスがヘロデの手から守られたのは、イエスの果たすべき「務め」、十字架の救いの出来事を果たし終えるためです。 ヨセフがイエス・キリストに出会ったのは、自分の「いま、ここ」にあるあるがままの姿を見つめさせられるためであったしょう。 私たちは、「いま、ここ」にしか生きることはできないのです。 過ぎ去った過去とは、全く不連続であるように思える。 これからの未来もまた、ぼんやりと見えているつもりだけなのです。 神の業が、はるかに私たちの目や耳や思いを越えているからです。 「いま、ここ」という点の連続ではないかとさえ思わされます。 かえがえのない「いま、ここ」、その意味と目的は、神ご自身が後で説明してくださるのです。 この新しい一年もまたヨセフのごとく、「いま、ここ」を神の呼びかけに、思い煩いの中にも黙ってご一緒に従って歩んで参りましょう。



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