秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

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「新しい時に満たされて」  ルカによる福音書5章33~39節

2022-11-06

「あなたの弟子たちは断食もしない、飲んだり食べたり」していると、イエスに向けて批判する人々がいます。 「ファリサイ派の人々、律法学者たち」です。 当時のユダヤ教徒たちは、一日3回の祈り、週2回の断食、十分の一の献金をささげることが常識でもありました。 神の国に入るため、神の裁きを免れるためでした。 むしろ、断食して祈ること自体が見せる祈りの姿、最終目的となって、ユダヤ主義の伝統となってしまっていたのです。 イエスは彼らの批判に、「婚礼」のたとえをもって応えます。 「花婿」に出会う時が訪れた。 そのために招かれた「客」として、互いに喜びを分ち合う特別な時がきた。 神の国が「婚礼」に譬えられ、イエスが「花婿」に譬えられ、私たちが祝宴に招かれた「客」に譬えられているのです。 「喜びの時がきた」と同時に、「断食して祈らざるを得ない時がいずれやってくる」とも言われる。 「花婿」であるイエスが奪い取られる時がくると、ご自身の十字架の受難をこの「譬え」をもって予告しておられるのです。 これは、「神のご計画、神のみ心」である。 断食や祈りの果てに、神の国があるのではない。 イエス・キリストの十字架の死と復活のもとにある。 神の赦しと救いのもとにある。 「新しい服、新しい布切れ」とは、イエスによって用意された新しい恵みの生活、イエスに出会うことができた、イエスとこれから後ともにあるという新しい恵みの生活でしょう。 「古い服、布切れ」とは、人の造り上げたものに縛られ、人の造り上げた「正しさ」に閉じ込められた今の生活でしょう。 神の国に入る人は、この招きに応えて、同じ食卓に着き、喜びを分かち合う人たちである。 この新しい恵みの生活の中味である「新しいぶどう酒、それを入れる新しい革袋」を感謝して受け取り、満たされなさい。 新しい命に委ねて生きなさい。 しかし、そのイエスが見えなくなる時が来るかもしれない。 本当の喜び、感謝、希望がわき上がってこない時がくるかもしれない。 かつての古い生き方に戻ってしまったのではないかと思わされる時がくるかもしれない。 神などいるのだろうかと思わされる時がくるかもしれない。 しかし、私たちはもはや、「新しい服、新しいぶどう酒」が備えられていることを知らされています。 イエス・キリストの十字架のゆえに、向きを変えて再び立ち帰ればよいのです。 信仰は、その都度最もふさわしい時にいつも新しく注がれるのです。 そのために神に向かってなされる断食であり、祈りであるはずです。 イエスにその都度招かれて、それに応えて食卓に着くことです。 その時の私たちの状態がどのようなものであるのかは問題ではない。 イエスと再び出会い、イエスと共にいるという現実の実感が、新しい恵みの世界です。 神ご自身が働いて、古いものを突き破って現れ出てくださる、それが「新しい服、新しいぶどう酒、新しい革袋」の姿なのではないでしょうか。 私たちの常識、経験、築き上げられた品性や性格、知恵や技術や心構えなどの「私たちの思い、私たちの計画」を遥かに超えた「神のみ心、神のご計画」なのです。 「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」(コロサイ2:3)と言われるイエス・キリストに出会うこと、触れること、味わうことです。 この体験をすることによって、私たち自身の愚かさ、弱さ、貧しさに気づかされるのです。 「人間の思い、人間の計画、人間の力」では得ることのできなものです。 「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神である。」(フィリピ2:13)のです。 信じることができないようなことを、「神のご計画、神のみ心」のゆえに信じることができるようになるのです。 神を畏れず、「自分の正しさ、自分の計画」の側に立たないで、「神の側に立つ者」としていただきたいのです。



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