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「ネヘミヤの祈り」 ネヘミヤ記1章4~11節 

2022-09-11

 紀元前586年、バビロニア帝国によって南王国ユダが滅ぼされ、その首都エルサレムは破壊され、エルサレムの多くの人々は捕虜としてその首都バビロンに連れ去られたのです。 ところが紀元前539年、ペルシャ帝国がバビロニア帝国を打ち倒し、バビロンに捕囚されていたユダヤ人たちを解放し、エルサレム神殿の再興を命じたというのです。 そのような時、エルサレムから1000キロ以上も離れたペルシャの首都の宮廷に、「献酌官」として務めていたネヘミヤがいたのです。 「献酌官」とは、平たく言えば毒見役のことです。 王が毒殺されることが頻繁に起きた時代には、王の信頼の厚い者が司る役目です。 王の政治的な相談にのるぐらいの宮廷の高官でした。 一方で、少しでも王の信頼を損ねる言動、感情を害する言動を犯すなら、即座に疑われ抹殺されてもおかしくないほどの危険な立場でもあったのです。 そのネヘミヤがわざわざユダから訪ねてきた人たちに、「捕囚を免れて残っているユダの人々について、また、エルサレムについて」尋ねます。 ネヘミヤにとって、忘れることのできなかった故郷エルサレムであったのです。 「残っている人々は、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けています。 エルサレムの城壁は打ち破られ、城門は焼け落ちたままです。」という答えに、ネヘミヤは「座り込んで泣き、幾日も嘆き、天にいます神に祈りをささげた。」と言います。 幾日も食を断つほどに悲しんだネヘミヤの嘆きは、人や社会に対する恨みや怒りに向かわず「天にいます神」に向かうのです。 周辺他国の嘲りに惑わされないよう、エルサレムの城壁が修復されるよう、エルサレムの人々と神との交わりが回復されるよう願う「神に対する祈り」が起こされるのです。 エルサレムの人々と嘆きや苦しみを共にしようと、昼も夜も境目なく祈る凄まじい「祈り」をネヘミヤは神にささげるのです。 神への絶対的な信頼に立って、「天にいます神よ。 偉大にして畏るべき神よ。 契約を守り、慈しみを注いでくださる神よ。 耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。」と呼びかけ祈り始めるのです。 「もしもわたしに立ち帰り、わたしの戒めを守り、それを行うならば、天の果てにまで追いやられている者があろうとも、わたしは彼らを集め、わたしの名を住まわせるために選んだ場所に連れて来る。」と約束してくださったではないですかと、神のもとを離れてしまっていた私たちエルサレムの民と神との交わりの回復を「悔い改め」によって祈るのです。 「エルサレムで苦しんでいる彼らも、またこのわたしもあなたの僕、あなたの民です。 あなたが大いなる力と強い御手をもって贖われた者です。 わたしも、わたしの父の家も、エルサレムの人々も罪を犯しました。 どうぞ憐れんで、耳を傾けてください。 わたしの願いを叶えてください。 そのためにこの人の憐れみを受けるようにしてください。」と「とりなしの祈り」をささげるのです。 「この人の憐れみを受ける」とは、ペルシャ王の憐れみを受けさせてくださいという、この世の王の権威を用いてでも神の御心が果たされるようにと祈るのです。 「祈り」は必ず出来事になります。 神が祈りを聞いて、立ち上がり動かれるからです。 私たちの嘆き、痛みに直接触れてくださるからです。 神が立ち上がられるのを待つことです。 この先起こされるであろう出来事に大いに期待して、神以外の者を恐れることなく神に委ねることです。 ネヘミヤはわずか52日間で復興がなされた城壁の完成を喜んでいるのではありません。 深い嘆きに追い込まれて「祈り」が与えられた。 神が直接、私の嘆きに触れてくださった。 自分にしか味わうことのできなかった体験を味わった喜びです。 そのために自分が負うべき嘆きや痛みを自分の「誇り」として、「喜び」として身に引き受けたのです。



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