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「持てるものを重んじる主」 マルコによる福音書6章30~44節 

2022-07-24

 イエスにより宣教の地ガリラヤに杖一本のほか何も持たないで遣わされた使徒たちは、「イエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」と言います。 彼らには様々な困難や苦しみもあったでしょうが、「残らず報告した。 食事する暇もなかった。」と言いますから、充実して、高揚して、喜んで報告していたのでしょう。 彼らの弱さや限界をご存じのうえで、「さあ、あなたがただけで人里離れた所に行ってしばらく休むがよい」とイエスは養っておられるのです。 そのような最中に起こされた、福音書すべてが記す「五つのパンと二匹の魚」による五千人の養いの箇所です。 ガリラヤの領主であったヘロデは、バプテスマのヨハネの首をはねて無残に殺してしまう恐ろしい、民衆のことなど頭に毛頭ない人物でした。 本来、この民衆のために執り成すべき務めを与えられた祭司や律法学者たちもまた、民衆の存在よりも自分たちの存在を第一とする人たちでした。 このような「暗闇」の社会に遣わされたイエスは「光」として新しく神の国が訪れたと、使徒たちとともに宣べ伝え始めたのです。 その呼びかけに押し寄せて来た群衆の姿に、イエスは「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」と言います。 これが、ガリラヤの人たちに対するイエス・キリストの眼差しです。 「羊」は自己管理のできない存在と言われ、「深く憐れむ」とは同情の意味を遥かに超えた「共に苦しむ」という意味合いの強い言葉です。 父なる神に遣わされ十字架の時が迫っていることを感じながら、その「救いの業」に、確信と願いを新たにされたのではないでしょうか。 ガリラヤ湖に近接する人里離れた所、夕暮れ時、時間も経ち空腹を覚え始めた時です。 このイエスの眼差しに対する弟子たちの眼差しが、「人々を解散させてください。 そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べるものを買いに行くでしょう。」というものでした。 理性や経験に裏付けられた的確かつ賢い進言です。 イエスは、「もし、あなたがたにこの神の民を養うという務めがあるなら」と、弟子たちの「意志」に「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と迫ります。 「人里離れた所です。 すべての群衆を養うほどの大量のパンをいったいどこから買ってくるのですか。」という弟子たちの問いに、「それでは今、ここに、パンはいくつあるのか。 見て来なさい。」とすでに与えられているものを確かめさせ、群衆を青草のうえに座らせ、こんな僅かなものと思われた「五つのパンと二匹の魚」を取り、大群衆を養うものとして「天を仰いで賛美の祈りを唱え」祝福されたのです。 それらを弟子たちに預け、一人も洩れることなく配らせたのです。 すると、すべての人が満たされた。 その「僅かなもの」は決して減ることはなかったと言うのです。 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。 あなたがわたしと共にいてくださる。 わたしの杯を溢れさせてくださる。」(詩編23編)というダビデの賛美の歌が、イエスの深い憐れみによってここに成し遂げられたと語られているのではないでしょうか。 「僅かなもの」とされた存在によって、すべての人が満たされたという事実が示されています。 ものの大きさや量の多さではない。 イエスによって祝福されたものであるかどうか。 イエスの深い憐れみに押し出されたみ心に適うものであるかどうかです。 その祝福されたものを弟子たちが配り、分け与えるのです。 配り分け与えられたものこそ、イエスご自身のからだでしょう。 「受け取って味わいなさい。 分かち合いなさい。」、「足りないのは、気づくこと、差し出すこと、分かち合うことに足りないのだ。」とイエスの言葉が響きます。



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