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「信仰に生きるとは」 コリントの信徒への手紙二4章7~15節 

2022-07-17

 なぜ、私たちは神さまを信じることができるようになったのでしょうか。 パウロが語るように、「隠されていた神秘としての神の知恵」としか言いようがないのかもしれません。 信仰が芽生え、養われてきたのも、小さな決断が与えられたのも、見えていなかったことが見えるようになったことも、気づいていなかったことに気づくようになったことも、この世のものさしで測ることができない意味を曲がりなりにも悟り知ることができるようになったのも、自分自身の側に理由があるのではなく、神の側にその理由があるように思えるのです。 神ご自身が決意をもって繰り返し私たちに出会い現れてくださり、備えてくださっているものを指し示して、「あなたはこれを信じるか」と迫り、それに私たちが自らの弱くて壊れやすい小さな「意志」をもって辛うじて決断し従っていくことができるようにと、神が願っておられるからでしょう。 信仰は、自分の力でもつことのできない、私たちが持ち合わせていない神の霊によって、神との交わりによって授けられるものです。
 パウロは、自分自身のことを「土の器」と言います。 どこにでもある土塊から造られたもろくて壊れやすい、飾るにふさわしくない卑しい器であること、同時に、陶器士が粘土をこねてつくり上げるように神がそれぞれにふさわしく造られた存在であることも示しているのでしょう。 そのような「土の器」の中に、「宝」を納めていますとパウロは言うのです。 この「宝」を、「神の並外れて偉大な力」あるいは「神の栄光を悟る光」と表現しています。 この「宝」は、「神のものであって、わたしたちから出たものではない。」 「四方から苦しめられても行き詰らない。 途方に暮れても失望しない。 虐げられても見捨てられない。 打ち倒されても滅ぼされない」とパウロが語っているのは、自分自身の中に宿っておられる復活された霊なるイエス・キリストのゆえに、そのイエス・キリストによって語られた神の約束の言葉のゆえにということです。 この章の1節に、「わたしたちは憐れみを受けた者としてこの務めを委ねられているのですから、落胆しません。」と語っているところから、むしろ神から自分に授けられた「務め」のゆえに「落胆しません。」 5節の「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えているのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。」という授けられた「務め」のゆえにと語っているのではないでしょうか。 もろくて壊れやすい、飾るにふさわしくない卑しい「土の器」に、イエス・キリストを宣べ伝える務めという「宝」を盛られることによって、イエス・キリストの命が自分自身の体に現れる。 「土の器」のひび割れたところからイエス・キリストの命がにじみ出てくると言うのです。 どこからも推薦状を受けていなかったパウロの資格について批判していたコリントの教会の人たちに、パウロは逆に神ご自身から与えられた務めを「宝」と表現し、その御計画に沿って務めが果たされるなら、パウロ自身がいかに批判されようが、あなたがたコリントの教会の人たちのうえに、イエス・キリストの祈りが現れ出ると涙ながらに訴えていることが、この「土の器」と「宝」という言葉に凝縮されているのです。 「たとえ、わたしたちの中に死が働いたとしても、あなたがたの内には命が働くことになる。 主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒にその御前に立たせてくださる。」とパウロは確信しているのです。 どのような「器」であるのかが問題ではない。 その器に盛られている「宝」、その人にしか担うことのできない「務め」が大切である。 「土の器」のひび割れも、もろさも、穴ぼこも、弱さも、醜さも、そこからイエス・キリストの命が溢れ出るとパウロは言うのです。



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