秋田バプテスト教会 |公式ホームページ

キリスト教や聖書、結婚式や葬儀も相談できるキリスト教会です。

「主と同じ姿」 コリントの信徒への手紙二3章18節 

2022-05-01

 パウロは「肉に従って歩む者」と「霊に従って歩む者」がいると言います。 「肉に従って歩む者」とは、罪の中にある私たち人間の姿ということになるでしょう。 パウロは「罪の奴隷」とまで言っています。 「霊に従って歩む者」とは、神の息を吹き込まれて創られた天地創造の際の人間の姿ということになるでしょうか。 パウロは「神の子ども」とまで言っています。 「奴隷」と「子ども」の違いは、帰ってくるところがある、たとえ過ちを起こしたとしても赦される、捨て去られることがないということではないでしょうか。 パウロは、この「罪の奴隷」の姿と「神の子ども」の姿を自分自身の中に合わせ持つと嘆いています。 私たちの生涯を振り返ってみますと、「バプテスマ」を受けて信仰生活が始まりました。 パウロは、「わたしたちは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 バプテスマを受けてキリストに結ばれたわたしたちは皆、キリストを着ているからです。 ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。 わたしたちは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:26-28)と言います。 パウロが嘆いていたように相反する姿をもつ私たちであったとしても、それでも神の子であるという確信をパウロのようにもっているでしょうか。 バプテスマは、私たちの信仰生活の最終目標ではなく始まりです。 「神の子ども」は成長するのです。 パウロは、「わたしたちは皆、主と同じ姿に造りかえられていきます。」と言います。 自力で、神の前に正しい者とすることのできない私たちが、ただ信仰により、無条件の神の恵みにより、それでも神の子として生かされる者となっていきますと言うのです。 それも「皆」です。 例外なくです。 この恵みを信仰によって受け取っていく者にはすべて、「主イエスと同じ姿」に造りかえられていく。 それは、「キリスト・イエスを死者の中から復活させた方の霊の働きによる。」 私たちはその途上にある。 神のものとなるその救いの始まりにあると言うのです。 そして、「鏡のように主の栄光を映し出しながら、主と同じ姿に造りかえられていきます。」と言います。 神の栄光に直接触れることができるようになる。 そればかりか、この神の栄光を映し出す姿に変えられていくとまで言うのです。 パウロは、「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(フィリピ3:8)と告白します。 パウロの地上の生涯の最終到達地点は、「神の国を引き継ぐこと」、「神の国の命を得るための死者の中からの復活」でした。 キリスト・イエスの新しい霊なる体には、十字架上での釘や槍の傷跡があるはずです。 イエスと同じ体に造りかえられる私たちにも、キリストの姿が映し出されるはずです。 私たちの輝かしい姿にではなく、私たちの惨めな姿、欠けや貧しさや弱さや過ちのひとつひとつの傷跡に、キリストの恵みが注がれて映し出されていくのでしょう。 私たちの内に宿るキリストの霊によって、どうしようもない私たちが造りかえられて生かされるようになる。 曲りなりにもキリスト・イエスに従って行こうとする私たちに授けられた短い生涯に、神のみ心が果たされていくのでしょう。 これが、私たちの地上の生涯の最終ゴールではないでしょうか。 キリストはこのような私たちをも用いて、今もなおこの地上で働いておられるのです。 キリストに従う者によって、神のみ心がこの地上に果たされること、そのために神のみ言葉が語られ、聞かれること、これが私たちに託された務めではないでしょうか。 私たちに託された時には限りがあります。 その時を、神の栄光のために用いられていることに気づきましょう。



バナー
バナー

お知らせ

過去の記事



〒010-0917
秋田市泉中央3−2−1
TEL/FAX 018-862-5357(教会)
TEL 018-863-4228(幼稚園)
牧師 村上悦二
協力牧師 渡部元