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「エチオピアの高官のバプテスマ」 使徒言行録8章26~40節 

2022-05-15

 大きな成果を上げた最初の頃のキリスト者の群れの宣教の働きの中に、ルカは小さな福音宣教の出来事をわざわざ書き留めています。 「たったひとりにたったひとりが用いられて、神の福音のみ言葉が告げ知らされて、再びそれぞれのところに遣わされていく」小さな出来事です。 サマリアの地で思いがけず宣教の働きの大成功を収めたフィリポに、「主の天使」が、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け。」と命じるのです。 人々が温かく接してくれるサマリアの地を離れて、だれも通る人がいないような荒れ地を通って、破壊された廃墟の町に行けと命じられているのです。 フィリポは自分の思い描くものとは異なるものを神から迫られて、自分を振るい立たせ動き出さねばならない「神のみ言葉」を聞かされたのでした。 フィリポは何も言わず「すぐ出かけた」と言います。 そこで、エチオピアの女王の全財産の管理をしている一人の宦官に出会ったのです。 「宦官」とは、位の高い女性の貴族に仕える、男性としての機能を去勢され、専ら女性だけに仕える奴隷です。 家族や社会とのつながりをもつことも許されない存在です。 ユダヤ社会からみれば、遠い国の異邦人でありかつ宦官であったというだけで、受け入れられない存在でした。 その宦官が礼拝のためにエルサレムに来て国へ帰る途中であった。 馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していたと言います。 手に入れることのできないような馬車や預言書を手にしていたにも拘わらず、なぜこのような生涯を選んでしまったのかと自分の生涯に疑問をもっていた。 このような身分であったとしても神の救いがもたらされると、イザヤ書56章に書いてあることを見つけ出し、自分の救いを求めていたのでしょう。 エルサレムで礼拝をささげ、長い道のりをかけて帰って行こうとする時でさえ、救いの確信を得ようとイザヤ書を朗読していたのです。 その箇所こそ、イエス・キリストの十字架の預言でした。 神の声が再びフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と命じるのです。 すべて神の備え、神の業としか言いようがありません。 み言葉を伝える側が、伝えられる側に近づいて行って主にある交わりを築けと神は命じておられるのです。 そこから、フィリポと宦官との「読んでいることがお分かりになりますか。」、「どうぞ教えてください。」という対話が始まります。 フィリポは聖書の箇所から説き起こし、イエスについての福音を告げ知らせたと言います。 宦官は、「屠り場に引かれて行った羊、毛を刈る者の前で黙している小羊」の姿を、自分の残酷な運命に重ねて、「傷ものとされたこの私を助け出し、救い出してくださるお方は、一体だれなのですか」とフィリポに尋ねたのです。 宦官はフィリポの説き明かしにうなずいて、神と自分がイエス・キリストによって直接結ばれたことを悟って、バプテスマを求めたのでしょう。 福音の言葉を携える者のなすべきことは、「追いかけて、語りかけて、主にある交わりを築き、説き明かす」ことでした。 フィリポは、散らされて行ったサマリアにおいてでも、だれも行かないようなガザに向かう寂しい道にでも、神の霊に導かれるままに「立ち上がり、追いかけた」のです。 そこに、ひとりがひとりと出会い、奇跡が起こされたのです。 神のみ心のままに委ねてみる。 一歩、踏み出してみる。 そうすると、神のみ心を知るようになるし、味わうことにもなるのです。 水の中から新しくつくり変えられて出て来た二人は、それぞれの場所に遣わされて行ったのでした。 神は小さな存在を追いかけて、見つめて追いかけられておられるのです。 人間の計画や行動や手順などには無頓着です。 神はみ心のまま、自由自在です。 



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