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「つまずきと愚かさを信じる」 ルカによる福音書23章32~43節 

2022-04-10

 イエスの十字架のもとには、様々な人々の姿が映し出されています。 祭司長、律法学者、長老というユダヤの指導者たちこそ、イエスを十字架につけた張本人です。 自分たちが築き上げてきたものすべてを壊しかねないイエスを抹殺するために、ローマ帝国の権威と権力を利用して用いた道具が「十字架」という刑罰でした。 彼らは、「自分を救うことのできない者が、どうして救い主と言えるか」とあざ笑ったのです。 「死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった」と判断しているのに、真実を曲げて自分の身を守るためだけにイエスを十字架刑に引き渡したローマ総督ピラト、ユダヤの領主ヘロデの姿が今朝の場面には隠れています。 この処刑の有様を「立って見つめていた」民衆の姿もあります。 イエスが自分たちが望む救い主であると期待し大歓迎した人々が、わずか一週間で「十字架につけよ」と叫んでいるのです。 直接イエスを十字架につけ、殺し、その死を確認する務めをもつローマ兵士たちの姿もあります。 彼らもまた、「お前がユダヤの王であるなら、自分を救ってみろ」と侮辱するのです。 そのようなイエスの姿をどうしようもなく諦めて、嘆き悲しんでいた婦人たちの姿も記されています。 「十字架刑」とは、人間の尊厳を徹底的におとしめる残酷な刑です。
 「イエスの十字架」の他に「二人の犯罪人」の十字架、合わせて三本の十字架が処刑場に立ったと言います。 イエスは、「預言されていることはわたしの身に必ず実現する」と公言し、自ら進んで「十字架」を目指してこられたのです。 直前のオリーブ山で、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。 けれども、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と、汗が血の滴るように地面に落ちるほどに祈ったと言います。 「二人の犯罪人」と同じように、もはややり直しがきかない、裁きの前に死を受け入れ、地上の命の終わりを遂げようとされているのです。 そのイエスがそのような極限の場所で、「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです。」と、父なる神に過ちの赦しを祈る、とりなしの祈りをささげているのです。 自分の苦しみのためではなく、直接十字架につけたローマ兵だけでもなく、隣で十字架に架けられている「二人の犯罪人」も含めて過ちを繰り返すすべての人びとのためにイエスは祈っているのです。 このイエスのとりなしの祈りをすぐそばで聞いた「ひとりの犯罪人」が、この場に及んでもイエスを罵る「もうひとりの犯罪人」に言います。 「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。 しかし、この方は何も悪いことはしていない。」 なぜ、この犯罪人は、自分の過ちを心に刻むことができたのでしょうか。 ほどなく地上の命に終わりを告げようとする十字架の場で、「何をしているのか分からない」すべての人のために、地上の裁きでなく真の裁きを司るお方に、本当の裁きが及ばないようにと祈っているイエスの祈りを耳にしたのです。 真の裁きを執り行う存在を初めてそこで知った。 そのお方がおられるところに戻って行こうとされているイエスの確信の姿に出会ったのです。 この祈りこそ、自分のためにささげられていたことを知って驚いたのではないでしょうか。 その時の彼の語った言葉が、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」という精いっぱいの言葉でした。 それにイエスは、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と言われたのです。 地上の命を越えた「今日」、神が支配されている場で十字架のイエスと共にあると約束されたのです。 私たちの目には「つまずき、愚かさ」であるイエスの姿が、十字架の福音を信じる者には「神の力、神の知恵」となるのです。 これが地上の命の最後の場面で救われる者に与えられた祝福です。



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